オランウータン
豊島与志雄
今になって、先ず漠然と思い起すのは、金網のなかの仔猿のことである。動物園だったか、植物園だったか、それとも公園だったか、それは忘れた。広い金網のなかに親仔数匹の猿がはいっていた。暖い晴れた午後のこと、私はステッキを打振りながら散歩していたが、ふと、そこに足を止めた。女や子供や、背広服の男もいたようだが、大勢の人が猿を眺めていた。
一体、金網のなかの猿を見るのは、あまり気持のよいものではない。それが人間に似ているせいか、また何だか卑猥なせいか、長く見ていると、足の裏をくすぐられるような感じだ。
金網のなかでは、二匹の仔猿が、布を奪いあってふざけていた。よく見ると、白い裏のついた紫色の子供の帽子だ。一匹の仔猿がそれを奪って、枯木の枝に逃げのびると、くしゃくしゃなまま、頭にのっけ、眼をぱちくりやり、とんきょうな顔で、見物人たちの方を眺める。すると、も一つの仔猿がおっかけてきて、帽子をひったくり、金網の中程に逃げのび、ひょいと頭にのっけ、眼をぱちくりやり、とんきょうな顔で、見物人たちの方を眺める。それから、初めの仔猿がまた帽子を取りにくる。
いつまでもきりがない。白い裏の紫色の帽子が、もみくちゃになって、あちこちにとびあるく……。
ところで、私の家には子供はいないから、随って子供の帽子はないが、或る時、親戚の女が、赤ん坊をつれて、母の病気見舞にやって来た。赤ん坊の真白な帽子が、茶の間の長火鉢のそばにおいてあった。私はそれをそっと取って、頭にのっけ、眼をぱちくりやり、とんきょうな顔つきをしてみた。
私は猿に似ていたろうか。鏡を見たわけではないから、それは分らないが、気持はたしかに、猿のようだった。
そんなのは、まだよいが……。話はとぶけれど、私の家の近くに、可なり広い境内をもつ神社があった。
三百年近くにもなろうという古い建物で、銅の瓦で葺いた屋根は一面に白くさび、唐門からぐるりと練塀をめぐらして、拝殿神殿の神域をかこい、仁王門にはたくさん鳩が住み、左右に小さな泥池があって、冷い水が落葉を浮べており、その一方は小笹や雑草のおい茂った斜面で、大木が鬱蒼とそびえている。その斜面、向う高になっている謂わば丘の中腹に、小さな稲荷様があった。
神社に稲荷様はつきものだが、不思議なのは、境内が平地の場合は別として、多少とも勾配をなしてる時には、稲荷様は主体の神社より一段と高いところにある。そしてこの稲荷様には、たいてい石の鳥居をたてた本殿と、それから少しはなれて、小さな木の鳥居が幾つもならんでる祈祷所がある。私の家の近くの神社でもやはりそうだった。
私は夜分おそく、その神社を通りぬけることが屡々あった。
私も人並に、胸に憂悶を持っていた。即ち、悲痛な恋愛とロマンチックな頽廃と、無力な反抗とだ。そのために、やけ酒も飲んだし、無意味な彷徨もした――母が病気で寝込んではいるが。
深夜の酔余の彷徨の帰りには、神社の境内を通りぬけることが多く、そのような時、足は自然に、荒凉たる山野を偲ばせる崖地の方、稲荷堂の方に向くのだった。
池の横手から爪先上りになる。両側は一面に低い小笹と雑草、大木の幹がすっくと伸びあがり、仄白い肌目を見せてる枯木も交り、空を蔽った枝葉の下はしいんとした静けさだ。電灯の照明が甚だしくまばらで、ようやく小道が辿られるに過ぎない。かなたの灯火に目をつけ、足元に気を配り、ステッキをひきずり、その時々の気持に応じて、悲しいロマンスの一節か、壮烈な漢詩の一句か、甘っぽい俗謡の断片かを、口ずさみながら行くのだ。或は深く胸の底に思いを沈めて、首垂れながら行くのだ。物影が、木立の影が、不意の驚きをぞっと身にしませる。人影一つなく、犬の声さえもない、静まりかえった夜更けである。
苔むした石の碑がある。五尺ばかりの台石の上に、狐の像がしゃがんでいる。片方の耳が欠け、尖った口の先が欠けている。またも狐の像が、今にも飛び出そうとしている。その先に、祈祷所だ。
半ば崖の中に、洞穴みたいに、石をたたみこんで、朽木の庇がさし出ている。鈴のついた紅白の布の太い綯綱。手垢に黒ずんだ幾筋もの綯綱。竹竿でたてた沢山の赤や白の旗。多くの小さな絵馬。身を屈めて中をのぞきこむと、蝋燭の焔に黒くすすけた石壁の中に、狐格子がはめこんであり、長い髪の毛の束が所々に結びつけられている。格子の中は真暗で、ほんのりと光っているのは、鏡ででもあろうか。
そこを通りすぎると、私は裏道から来たのだ、小さな鳥居の列。赤塗りの鳥居、白木の鳥居、すきまなく立並んで、而も頭につかえるくらい低い。その長い隧道をすぎると、ぱっと明るい照明で、その先に、大きな石の鳥居、立派な堂宇、稲荷様の本社だ。
或る夜おそく、もう二時……丑三つに近い頃、ふらり
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