う隠密な制度に通じていたならば、今バスクが案内してきた客の背に、取り替え人の所から借りてきた政治家の上衣を、すぐに見て取り得たはずである。
 マリユスは予期していたのと違った男がはいってくるのを見て失望し、失望の念はやがて新来の客に対する嫌悪《けんお》の情となった。そして男が低く頭を下げてる間、彼はその頭から足先までじろじろながめて、きっぱりした調子で尋ねた。
「何の用ですか。」
 男は鰐《わに》の媚《こ》び笑いとでも言えるように、歯をむき出して愛相笑いをしながら答えた。
「閣下には方々でお目にかかる光栄を得ましたように覚えております。ことに数年前、バグラシオン大公夫人のお邸《やしき》や、上院議員ダンブレー子爵のお客間などで、お目にかかったように存じております。」
 まったく初対面の人にもどこかで前に会ったような様子をするのは、卑劣な男の巧みな慣用手段である。
 マリユスは男の話に注意していた。しかしいくらその声の調子や身振りに目をつけても、失望は大きくなるばかりだった。鼻にかかった声であって、予期していた鋭いかわいた声音《こわね》とはまったく異なっていた。彼はまったく推定に迷わされた
前へ 次へ
全618ページ中562ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング