ら?」
「閣下、利己心は世界の大法であります。日傭稼《ひようかせ》ぎの貧乏な田舎女《いなかおんな》は、駅馬車が通れば振り返って見ますが、自分の畑の仕事をしてる地主の女は、振り向きもいたしません。貧乏人の犬は金持ちに吠《ほ》えかかり、金持ちの犬は貧乏人に吠えかかります。みな自分のためばかりです。利益、それが人間の目的であります。金は磁石であります。」
「だから? 結局何ですか。」
「私はジョヤに行って住みたいと思っております。家族は三人で、私の妻に娘、それもごく美しい娘でございます。旅は長くて、金もよほどかかります。私は金が少しいるのでございます。」
「それが何で僕に関係があるんですか。」とマリユスは尋ねた。
男は首飾りから首を差し出した。禿鷹《はげたか》のよくやる身振りである。そして彼はいっそう笑顔を深めて答えた。
「閣下は私の手紙を御覧になりませんでしたでしょうか。」
それはほとんどそのとおりであった。実際、手紙の内容にマリユスはよく気を止めなかった。彼は手紙を読んだというよりむしろその手跡を見たのだった。何が書いてあったかはほとんど覚えていなかった。けれどもちょっと前から新しい糸口が現われてきた。彼は「私の妻に娘」という一事に注意をひかれた。そして鋭い目を男の上に据えていた。予審判事といえどもそれにおよぶまいと思われるほど、じっと目を注いでいた。ほとんど待ち伏せをしてるようなありさまだった。それでも彼はただこう答えた。
「要点を言ってもらいましょう。」
男は二つの内隠しに両手をつき込み、背筋をまっすぐにせずただ頭だけをあげて、こんどはこちらから緑色の眼鏡越しにマリユスの様子をうかがった。
「よろしゅうございます、閣下。要点を申し上げましょう。私は一つ買っていただきたい秘密を手にしております。」
「秘密!」
「秘密でございます。」
「僕に関しての?」
「はい少しばかり。」
「その秘密とはどういうことです?」
マリユスは相手の言うことに耳を傾けながら、ますます注意深くその様子を観察していた。
「私はまず報酬を願わないでお話しいたしましょう。」と男は言った。「私がおもしろい人物である事もおわかりでございましょう。」
「お話しなさい。」
「閣下、あなたはお邸《やしき》に盗賊と殺人犯とをおいれになっております。」
マリユスは慄然《りつぜん》とした。
「僕の宅に? いや決して。」と彼は言った。
男は平然として、肱《ひじ》で帽子の塵《ちり》を払い、言い進んだ。
「人殺しでかつ盗賊であります。よくお聞き下さい、閣下。私が今申し上げますのは、古い時期おくれの干からびた事実ではありません。法律に対しては時効のために消され、神に対しては悔悟のために消されたような、そういう事実ではありません。最近の事実、現在の事実、今にまだ法廷から知られていない事実、それを申してるのであります。続けてお話しいたしますが、その男がうまくあなたの信用を得、名前を変えて御家庭にはいり込んでおります。その本名をお知らせ申しましょう。しかもただでお知らせいたしましょう。」
「聞きましょう。」
「ジャン・ヴァルジャンという名でございます。」
「それは知っています。」
「なお私は報酬も願わないで、彼がどういう人物だかを申し上げましょう。」
「お言いなさい。」
「元は徒刑囚だった身の上です。」
「それは知っています。」
「私が申し上げましたからおわかりになりましたのでしょう。」
「いや。前から知っていたのです。」
マリユスの冷然たる調子、それは知っています[#「それは知っています」に傍点]という二度の返事、相手に二の句をつがせないような簡明さ、それらは男の内心を多少|激昂《げっこう》さした。彼は憤激した目つきをちらとマリユスに投げつけた。そのまなざしはすぐに隠れて、一瞬の間にすぎなかったが、一度見たら忘れられないようなものだった。マリユスはそれを見のがさなかった。ある種の炎はある種の魂からしか発しない。思想の風窓である眸《ひとみ》は、そのために焼かれてしまう。眼鏡《めがね》もそれを隠すことはできない。地獄にガラスをかぶせたようなものである。
男はほほえみながら言った。
「私は何も男爵閣下のお言葉に逆らうつもりではございません。がとにかく、私がよく秘密を握っているということは認めていただきたいのでございます。これからお知らせ申し上げますことは、ただ私ひとりしか承知していないことであります。それは男爵夫人閣下の財産に関することでございます。非常な秘密でありまして、金に代えたいつもりでいます。でまず最初閣下にお買い上げを願いたいのです。お安くいたしましょう。二万フランに。」
「その秘密というのも、他の秘密と同様に私は知っています。」とマリユスは言った。
男はその価を
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