しょに並ぶというだけである。そして新来の者は皆一つのわずらいとなってくる。もう他人を入れる余地はない。日常の習慣がすっかりでき上がっている。ジルノルマン老人には、フォーシュルヴァン氏とかトランシュルヴァン氏とかいう「そんな人」はこない方がよかったのである。彼は言い添えた。「ああいう変わり者は何をするかわかったものではない。ずいぶん奇抜なことをやる。と言ってその理由は何もない。カナプル侯爵はもっとひどかった。りっぱな邸宅を買い入れて、自分はその物置きに住んでいた。ああいう人たちは表面《うわべ》だけ変なことをしてみたがるものだ。」
 だれもその凄惨《せいさん》な裏面には気づく者はなかった。第一どうしてそんなことが推察し得られたろう? 印度にはそういう沼がいくらもある。異様な不思議な水がたたえていて、風もないのに波を立て、静穏であるべきなのが荒れている。人はただその理由もない混乱の表面だけをながめる。そして底に水蛇《みずへび》がのたうっていることを気づかない。
 多くの人もそういう秘密な怪物を持っている、心中にいだいている苦悩を、身を噛《か》む竜《りゅう》を、内心の闇《やみ》の中に住む絶望を。かかる人も普通の者と同じようにして暮らしている。彼のうちに無数の歯を持ってる恐ろしい苦悶が寄生し、みじめなる彼のうちに生活し、彼の生命を奪いつつあることは、だれからも知られない。その男が一つの深淵《しんえん》であることは、だれからも知られない。その淵《ふち》の水は停滞しているが、きわめて深い。時々、理由のわからぬ波が表面に現われてくる。不思議なうねりができ、次に消えうせ、次にまた現われる。底から泡《あわ》が立ちのぼってきては、消えてゆく。何でもないことのようであるが、実は恐ろしいことである。それは人に知られぬ獣の吐く息である。
 ある種の妙な習慣、たとえば、他の人が帰る頃にやってくるとか、他の人が前に出てる間うしろに隠れてるとか、壁色のマントをつけるとでも言い得るような態度をあらゆる場合に取るとか、寂しい道を選ぶとか、人のいない街路を好むとか、少しも会話の仲間入りをしないとか、人込みやにぎわいを避けるとか、のんきそうにして貧乏な暮らしをするとか、金があるのにいつも鍵《かぎ》をポケットに入れ蝋燭《ろうそく》を門番の所に預けておくとか、潜門《くぐりもん》から出入りするとか、裏の階段から上ってゆくとか、すべてそういう何でもなさそうな特殊の癖、表面に現われたる波紋や泡やとらえ難い皺《しわ》は、しばしば恐るべき底から発してくることがある。
 かくて数週間過ぎ去っていった。新しい生活はしだいにコゼットをとらえていった。結婚のために生じた交際、訪問、家政、遊楽、それらの大事件が起こってきた。コゼットの楽しみは費用のかかるものではなかった。それはただマリユスといっしょにいるということだけだった。彼と共に出かけ、彼と共に家にいる、それが彼女の一番大事な仕事だった。互いに腕を組み合わし、白昼街路を公然と、人通りの多い中をただふたりで歩くこと、これは彼らにとって常に新しい喜びだった。コゼットが気を痛めたことはただ一つきりなかった。すなわち、年取ったふたりの独身女は融和し難いけれど、祖父は達者であり、マリユスは時々何かの弁論に出廷し、ジルノルマン伯母《おば》は新家庭のそばに差し控えた日々を送りつつ満足していた。ジャン・ヴァルジャンも毎日訪れてきた。
 お前という呼び方は消えうせてしまい、あなたとか奥さんとかジャンさんとかいうことになって、彼はコゼットに対してまったく別人のようになった。彼女の心を自分から離そうとした彼の注意は、うまく成功した。彼女はますます快活になり、ますますやさしみが減じてきた。それでもなお彼女はよく彼を愛してい、彼もそのことを感じていた。ある日彼女は突然彼に向かって言った。「あなたは私のお父様でしたが、今はそうでなくなり、あなたは私の伯父様《おじさま》でしたが、今はそうでなくなり、あなたはフォーシュルヴァン様でしたが、今はジャン様となられたのですね。するとあなたは、いったいどういう方なんでしょう。私そんなこといやですわ。もしあなたがごくいい方だということを知らなかったら、私はあなたをこわがるかも知れません。」
 彼はなおオンム・アルメ街に住んでいた。以前コゼットが住んでいた街区を去るに忍びなかったのである。
 初めのうち彼は、数分間しかコゼットのそばにいないで、すぐ帰っていった。
 ところがしだいに、彼は長居をするようになってきた。あたかも日が長くなるのに乗じた形だった。彼は早くきては遅く帰っていった。
 ある日、コゼットはふと「お父様」と言ってしまった。すると喜びのひらめきが、ジャン・ヴァルジャンの陰鬱《いんうつ》な老年の顔に輝いた。彼は彼女をと
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