《ふきん》と羽箒《はねぼうき》とを腕にして、「次の間を片づけ」ていた時、軽く扉《とびら》をたたく音が聞こえた。呼び鐘は鳴らされなかった。こういう日にとっては少し不謹慎な訪れ方だった。バスクが扉を開くと、フォーシュルヴァン氏が立っていた。バスクは彼を客間に通した。客間はまだいっぱい取り散らされていて、前夜の歓楽のなごりをとどめていた。
「まあ旦那様《だんなさま》、」とバスクは言った、「私どもは遅く起きましたので。」
「御主人は起きておいでかね。」とジャン・ヴァルジャンは尋ねた。
「お手はいかがでございます。」とバスクは尋ね返した。
「だいぶいい。御主人は起きておいでかね。」
「どちらでございますか、大旦那様《おおだんなさま》と若旦那様と。」
「ポンメルシーさんの方だ。」
「男爵様でございますか。」と言いながらバスクはまっすぐに身を伸ばした。
 男爵などということは召し使いにとってはことに尊く思われるものである。彼らはそれから何かを受ける。哲学者が称号の余沫《よまつ》とでも呼びそうなものを、彼らは自分の身にまとって喜ぶ。ついでに言うが、マリユスは共和の戦士であり、実際それを行為に示してきたが、今は心ならずも男爵となっていた。この称号に関して家庭内に小さな革命が起こっていた。その称号を好んで用いるのは今ではジルノルマン氏であって、マリユスはむしろそれを避けていた。しかし、「予が子は予の称号を用うべし[#「予が子は予の称号を用うべし」に傍点]」とポンメルシー大佐から書き残されていたので、マリユスもそれに服従していた。その上、女たる自覚ができかかってきたコゼットは、男爵夫人たることを喜んでいた。
「男爵でございますか。」とバスクは繰り返した。「見て参りましょう。フォーシュルヴァン様がおいでになりましたと申し上げましょう。」
「いや、私だと言わないでくれ。内々にお話したいことがあると言ってる人とだけで、名前は言わないでくれ。」
「へえ!」とバスクは言った。
「ちょっとびっくりさしてみたいから。」
「へえ!」とバスクは、前の「へえ!」を自ら説明するようにして繰り返した。
 そして彼は出て行った。
 ジャン・ヴァルジャンはひとりになった。
 上に言ったとおり、客間の中はすっかり取り散らされていた。もし耳を澄ましたら、婚礼の漠然《ばくぜん》たる騒ぎがまだ聞こえそうにも思われた。床《ゆか》の上には、花輪や髪飾りから落ちた各種の花が散らばっていた。根元まで燃えつきた蝋燭《ろうそく》は、燭台《しょくだい》の玻璃《はり》に蝋のしたたりを添えていた。器具はすっかりその位置が乱されていた。片すみには、三、四脚の肱掛《ひじか》け椅子《いす》が互いに丸く寄せられてなお話を続けてるがようだった。室《へや》全体が笑っていた。宴の果てた跡にもなお多くの優美さが残ってるものである。すべてが幸福だったのである。乱れてるそれらの椅子の上で、凋《しぼ》んでるそれらの花の間で、消えてるそれらの灯火の下で、人々は喜びの念をいだいたのである。今や太陽の光は蝋燭の後を継いで、客間のうちに楽しくさし込んでいた。
 数分間過ぎた。ジャン・ヴァルジャンはバスクと別れた所にじっと立っていた。顔は青ざめていた。その目は落ちくぼんで、不眠のためほとんど眼窩《がんか》の中に隠れてしまっていた。その黒服には乱れた皺《しわ》がついていて、一晩中着通されたことを示していた。その肱は敷き布とすれ合った跡が白く毛ばだっていた。彼は自分の足もとに、太陽の光で窓の形が床の上に投げられてるのをながめていた。
 扉《とびら》の所に音がした。彼は目をあげた。
 マリユスがはいってきた。頭を上げ、口もとに笑《え》みを浮かべ、一種の輝きを顔に漂わせ、ゆったりとした額で、揚々たる目をしていた。彼もまた一睡もしていなかった。
「あああなたでしたか、お父さん!」と彼はジャン・ヴァルジャンを見て叫んだ。「バスクの奴《やつ》妙にもっともらしい様子をしたりなんかして! それにしてもたいそう早くいらしたですね。まだ十二時半にしかなりませんよ。コゼットは眠っています。」
 フォーシュルヴァン氏に向かってマリユスが言った「お父さん」という言葉は、最上の喜びを意味するものだった。読者の知ってるとおり、彼らの間には常に、絶壁と冷ややかさと気兼ねとが、砕き融《と》かさなければならない氷が、介在していた。ところが今やマリユスに喜びの時がきて、その絶壁も低くなり、その氷も融け、フォーシュルヴァン氏は彼にとってもコゼットにとっても同じくひとりの父となったのである。
 彼は続けて言った。喜悦の聖《きよ》い発作の特色として、言葉は彼からあふれ出た。
「お目にかかってほんとにうれしく思います。昨日いて下さらなかったので私どもはどんなに寂しかったでしょう。
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