た。そしてこんども、他の痛ましい変転の折既に幾度か起こったように、二つの道が前に開けていた。一つは彼を誘惑し、一つは彼を恐れさした。いずれを取るべきであるか?
 彼を恐れさする道の方を、神秘な指先がさし示していた。その指こそは、影の中に目を定めるたびごとに万人が認め得るところのものである。
 ジャン・ヴァルジャンはなお一度、恐るべき港とほほえめる陥穽《かんせい》とのいずれかを選択しなければならなかった。
 それでは、魂は癒《いや》され得るが運命はいかんともし難いということは、果たして真実なのか。不治の宿命! 恐るべきことである。
 彼の前に現われた問題とは、次のようなものであった。
 ジャン・ヴァルジャンはコゼットとマリユスとの幸福に対していかなる態度を取らんとしていたのか。しかもその幸福たるや、彼が自ら望み、彼が自ら作ってやったものである。彼はその幸福を自分の内臓のうちにしまい込んでいたが、今やそれを取り出してながめていた。そして、自分の胸から血煙を立てる短刀を引きぬきながらその上におのれの製作銘を認むる刀剣師のような一種の満足を、彼は感じ得るのであった。
 コゼットはマリユスを得、マリユスはコゼットを所有していた。彼らはすべてを、富をさえも得ていた。しかもそれは彼が自らなしてやった業だった。
 しかし、今現に存在し今そこにあるその幸福に対して、彼ジャン・ヴァルジャンはどうしようとしていたのか。彼はその幸福の仲間にはいってもよかったであろうか。それを自分のものであるかのように取り扱ってもよかったであろうか。確かにコゼットは他人のものであった。しかし彼ジャン・ヴァルジャンは、自分が保有し得るだけのものをコゼットから保有してもよかったであろうか、推定されたものではあるがしかし大切にされていた父たるの地位に、彼は今までどおり止まっていてもさしつかえなかったであろうか。平然としてコゼットの家にはいり込んでもよかったであろうか。その未来の中に自分の過去を、一言も明かさずに持ち込んでもよかったであろうか。当然であるかのようにそこに出てゆき、素性を隠しながらその輝く炉辺にすわっても、さしつかえなかったであろうか。彼らの潔《きよ》い手を自分の悲惨な手のうちに、ほほえみながら取ってもよかったであろうか。ジルノルマン家の客間の平和な炉火の前に、法律の不名誉な影をあとに引きずってる自分の足を置いても、よかったであろうか。コゼットとマリユスと共に、彼も幸運の分前《わけまえ》をもらってもよかったであろうか。自分の頭の上の曇りと彼らの上の雲とを深めても、さしつかえなかったであろうか。彼らふたりの至福に自分の覆滅を、第三者として付け加えてもよかったであろうか。やはり何も打ち明けないでもよかったであろうか。一言にして言えば、それらふたりの幸福な者のそばに、宿命の気味悪い沈黙としてすわっていても、さしつかえないのであったろうか。
 人は常に宿命とその打撃とになれていて、ある種の疑問が恐ろしい赤裸の姿で現われてきても、あえて目をあげてそれを見つめ得るようになっていなければいけない。善と悪とはそのきびしい疑問の背後に控えている。「どうするつもりか、」とそのスフィンクスは尋ねる。
 ジャン・ヴァルジャンはそういう試練になれていた。彼はそのスフィンクスをじっと見つめた。
 彼はその残忍な問題をあらゆる方向から考究した。
 あの麗しいコゼットは、難破者たる彼にとっては一枚の板子《いたご》であった。しかるに今やいかにすべきであったか。それに取りついているべきか。それを離すべきか!
 もしそれに取りついていれば、彼は破滅から免れ、日光のうちに上ってゆき、衣服と頭髪とから苦い水をしたたらせ、救われ、生きながらえることができるのだった。
 もしそれを離せば!
 その時は深淵《しんえん》あるのみだった。
 かく彼は自分の考えに悲痛な相談をなしてみた。あるいは更に適切に言えば、戦いを開いた。彼は心のうちで、あるいは自分の意志に対してあるいは自分の確信に対して、猛然として飛びかかっていった。
 泣くことができたのは、ジャン・ヴァルジャンにとって一つの仕合わせだった。それはおそらく彼の心を晴らしたであろう。けれども争いの初めは激烈だった。一つの暴風雨が、昔彼をアラスの方へ吹きやったのよりもいっそう猛烈な暴風雨が、彼のうちに荒れ回った。過去は現在の前に再び現われてきた。彼はその両者を比較し、そしてすすり泣いた。一度涙の堰《せき》が開かるるや、絶望した彼は身をもだえた。
 彼は道がふさがったのを感じていた。
 ああ、利己心と義務との激戦において、昏迷《こんめい》し、奮激し、降伏を肯《がえ》んぜず、地歩を争い、何らかの逃げ道をねがい、一つの出口を求めつつ、巍然《ぎぜん》たる理想の前から一歩
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