立ち止まった。その市民は白鳥に対して特殊な賛美の心をいだいてるらしかった。彼はその歩き方の点ではまったく白鳥に似寄っていた。
 しかし今白鳥は泳いでいた。游泳は白鳥の主要な才能である。それはすこぶるみごとだった。
 もしふたりの貧しい子供が耳を傾けたならば、そして物を理解し得るだけの年齢に達していたならば、彼らはそこに一個のまじめな男の言葉を聞き取り得たであろう。父は子にこう言っていた。
「賢い人は少しのものに満足して生きている。私を見なさい。私ははなやかなことを好まない。金や宝石で飾り立てた着物を着たことはない。そんな虚飾は心の劣った者のすることだ。」
 その時、強い叫び声が鐘の音と騒擾の響きとを伴って、市場町の方から突然聞こえてきた。
「あれはなに?」と子供は尋ねた。
 父は答えた。
「お祭だよ。」
 すると突然彼は、白鳥の緑色の小屋のうしろに身動きもしないで隠れてるぼろ着物のふたりの子供を見つけた。
「あんなのがそもそもの始まりだ。」と彼は言った。
 そしてちょっと黙った後に言い添えた。
「無政府主義がこの園にまで入り込んできてる。」
 そのうちに子供は、菓子パンをかじったが、それをまた吐き出し、急に泣き出した。
「何で泣くんだい。」と父は尋ねた。
「もうお腹《なか》がすいていないんだもの。」と子供は言った。
 父親の微笑はなお深くなった。
「お菓子を食べるには何もお腹がすいてなくてもいい。」
「このお菓子はいやだ。固くなってるから。」
「もう欲しくないのか?」
「ええ。」
 父は白鳥の方をさし示した。
「あの鳥に投げてやりなさい。」
 子供は躊躇《ちゅうちょ》した。もう食べたくないからと言って、それで他の者にくれてやる理由とはならない。
 父は言い続けた。
「慈悲の心を持ちなさい。動物をもあわれまなければいけない。」
 そして彼は子供の手から菓子を取って、それを池の中に投げやった。
 菓子は岸の近くに落ちた。
 白鳥は遠く池の中程にいて、他の餌《え》を漁《あさ》っていた。そして市民にも菓子パンにも気がつかなかった。
 市民は菓子がむだに終わりそうなのを感じ、その徒《いたず》らな難破に心を動かされて、激しい合い図の身振りをしたので、ようやく白鳥の注意をひいた。
 二羽の白鳥は何か浮いてるのを見つけ、まさしく船のように岸へ方向を変じ、菓子パンの方へ静かに進んできた。白い動物にふさわしいいかにもゆったりした威風だった。
「シーニュ([#ここから割り注]白鳥[#ここで割り注終わり])にはシーニュ([#ここから割り注]合い図[#ここで割り注終わり])がわかる。」と市民はその頓知《とんち》を得意そうに言った。
 その時、遠くの騒擾の響きはまた急に高まった。こんどはすごいように聞こえてきた。同じく一陣の風にも特にはっきりと意味を語るものがある。その時吹いてきた風は、太鼓のとどろきや鬨《とき》の声や一隊の兵の銃火の音や警鐘と大砲との沈痛な応答の響きなどを、はっきりと伝えていた。それとちょうど一致して、一団の黒雲がにわかに太陽を蔽うた。
 白鳥はまだ菓子パンに達していなかった。
「帰ろう。」と父は言った。「テュイルリーの宮殿が攻撃されてる。」
 彼はまた子供の手を取った。それから言い添えた。
「テュイルリーとリュクサンブールとは、皇族と貴族との間ぐらいしか離れていない。間は遠くない。鉄砲の弾が雨のように飛んでくるかも知れない。」
 彼は空の雲をながめた。
「そしてまた本当の雨も降りそうだ。空までいっしょになってる。ブランシュ・カデットは([#ここから割り注]若い枝は――ブールボン分家は[#ここで割り注終わり])挫《くじ》かれる。早く帰ろう。」
「白鳥がお菓子を食べる所が見たいなあ。」と子供は言った。
 父は答えた。
「そうしては不用心だ。」
 そして彼は自分の小さな市民を連れていった。
 子供は白鳥の方を残り惜しがって、五目形の植え込みの角《かど》に池が隠れるまで、その方を振り返ってながめた。
 そのうちに、白鳥と同時にふたりの浮浪の子供が菓子パンに近寄ってきた。菓子は水の上に浮いていた。弟の方は菓子をながめ、兄の方は去ってゆく市民をながめていた。
 父と子とは入りくんだ道をたどって、マダム街の方へ通ずる段をなした木の茂みにはいっていった。
 彼らの姿が見えなくなると、すぐに兄は、丸みをもった池の縁に腹ばいになり、左手でそこにしがみつきながら、ほとんど水に落ちそうになるほど身を乗り出し、右手を伸ばしてその杖を菓子の方へ差し出した。白鳥は競争者を見て急いだ。しかし急ぎながら胸をつき出したので、小さな漁夫にはそれがかえって仕合わせとなった。水は二羽の白鳥の前に揺れて退いた。そのゆるやかな丸い波紋の一つのために、菓子は静かに子供の杖の方へ押し
前へ 次へ
全155ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング