部にある。人間という些事に心を労して何の役に立つか。人間は苦しんでいるというが、あるいはそうかも知れない。しかしとにかく、アルデバラム星の上りゆくのをながめてみよ。母親は乳が出ず赤児は死にかかっているというが、そのようなことは自分の知るところではない。まあとにかく、一片の樅《もみ》の白木質が顕微鏡下に示すあの驚くべき薔薇形《ばらがた》の縞《しま》をながめてみよ。でき得るならば最もうるわしいマリーヌのレースをそれに比較してみるがいい! とそう彼らは言う。それらの思索家は愛することを忘れているのである。獣帯星座は彼らをして、泣く児に目を向けることを得ざらしむる。神は彼らの魂をおおい隠す。それは微小にして同時に偉大なる一群の精神である。ホラチウスはそのひとりであり、ゲーテはそのひとりであり、ラ・フォンテーヌもおそらくはそのひとりであった。実に無限なるもののみを事とする壮大なる利己主義者であり、人の悲しみに対する平然たる傍観者であって、天気さえ麗しければネロのごとき暴君をも意に介せず、日の光をのみ見て火刑場を眼中に置かず、断頭台上の処刑をながめてもただ光線の作用のみを気にし、叫び声もすすりなきの声も瀕死《ひんし》のうめきも警鐘の響きも耳にせず、五月であればすべてをよく思い、紅色と金色との雲が頭上にたなびく限りは満足だと称し、星の光と小鳥の歌とのつきるまでは幸福であるべく定められている。
輝いたる暗黒なる人々である。彼らは自らあわれむべき者であるとは夢にも思わない。しかし彼らはまさしくあわれむべき者らである。涙を流さぬ者は目が見えない。眉《まゆ》の下に両眼を持たず額の中央に一個の星を持っている[#「一個の星を持っている」は底本では「一個の星を持つている」]、夜と昼とで同時にできてる者を、あわれみかつ賛嘆し得るとするならば、彼らこそあわれみかつ賛嘆すべき者らである。
それら思想家の無関心は、ある者の説によれば、高遠なる哲理から来るものであるという。あるいはそうであるとしても、しかしその高遠さのうちには不具なる点がある。人は不死であるとともに跛足《びっこ》であり得る。神ヴルカヌスはその例である。人は人間以上であるとともに人間以下であり得る。自然のうちには広大なる不完全さも存する。太陽が盲目でないか否かをだれが知ろうぞ。
しからばおよそ何を信頼すべきであるか。太陽は虐偽なりとあえて言い得べきか[#「太陽は虐偽なりとあえて言い得べきか」に傍点]。天才も、最高の人も、恒星たる人も、誤ることがあり得るのか。いと高きにある者、最高点にある者、頂にある者、中天にある者、地上に多くの光を送る者、彼らの目もわずかしか見えないのか、よく見えないのか、あるいはまったく見えないのか。それでは絶望のほかはないではないか。否。しからば太陽の上に何が存するのか。曰《いわ》く、神。
一八三二年六月六日の午前十一時ごろ、人影もない寂しいリュクサンブールの園は麗しい様《さま》を呈していた。五目形に植えられた樹木や花壇の花は、日光のうちに香気や眩惑《げんわく》の気を送り合っていた。ま昼の光に酔うた枝々は、互いに相抱こうとしてるがようだった。シコモルの茂みの中には頬白《ほおじろ》が騒いでおり、雀《すずめ》は勇ましい声を立て、啄木鳥《きつつき》はマロニエの幹をよじ上って、樹皮の穴を軽く啄《つつ》き回っていた。花壇のうちには百合《ゆり》の花が、もろもろの花の王らしく咲き誇っていた。それも至当である、香気のうちにても最も尊厳なるものは純白から発するかおりである。石竹の鋭い匂《にお》いも漂っていた。マリー・ド・メディチの愛した古い小鳥も、高い樹木の中で恋を語っていた。チューリップの花は日の光を受けて、金色に紅色にまたは燃ゆるがようになり、あたかも花で作られた種々の炎に異ならなかった。その群咲《むれざ》きのまわりには蜂《はち》が飛び回って、炎の花から出る火花となっていた。すべては優美と快活とにあふれ、次にきたるべき雨さえもそうだった。再び来るその雨も、鈴蘭《すずらん》や忍冬《すいかずら》が恵みをたれるのみで、少しも心配なものではなかった。燕《つばめ》は見るも不安なほどみごとに低く飛んでいた。そこにある者は幸福の気を呼吸し、生命はよきかおりを発し、自然はすべて純潔と救助と保護と親愛と愛撫《あいぶ》と曙《あけぼの》とを発散していた。天より落ちて来る思想は、人が脣《くち》づけする小児の小さい手のようにやさしいものであった。
木の下に立ってる裸体のまっ白な像は、点々と光の落ちた影の衣服をまとっていた。それらの女神は日光のぼろをまとっていたのである。光線はその四方へたれ下がっていた。大きな池のまわりは、焼けるかと思えるまでに地面がかわききっていた。わずかに風があって、所々に塵《ちり》の渦
前へ
次へ
全155ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング