においては、それらのものの中にこもっていた意義は皆まじめなものであったと言うべきである。すなわち社会の各要素が、平等の域にはいる前にまず、闘争の域にはいっていたのである。
 なおこの時代のも一つの特徴は、政府主義(きちょうめんな一党派に対する乱暴な名前ではあるが)のうちに交じってる無政府主義であった。人々は不規律をもって秩序の味方をしていた。国民軍の某大佐の指揮の下に勝手な召集の太鼓はふいに鳴らされた。某大尉は自分一個の感激から戦いに向かった。某国民軍は「思いつき」で勝手な戦いをした。危急の瞬間に、「騒乱」のうちに、人々は指揮官の意見よりもむしろ多く自己の本能に従った。秩序を守る軍隊の中に、真の単独行動の兵士が数多あった、しかもファンニコのごとく剣による者もあれば、アンリ・フォンフレードのごとくペンによる者もあった。
 一群の主義によってよりもむしろ一団の利益によって当時不幸にも代表されていた文明は、危険に陥っていた、あるいは陥っていると自ら信じていた。そして警戒の叫びを発していた。各人は自ら中心となり、勝手に文明をまもり助け庇《かば》っていた。だれも皆社会の救済をもっておのれの任務としていた。
 熱誠のあまり時としては鏖殺《おうさつ》を事とするに至った。国民兵の某隊は、その私権をもって軍法会議を作り、わずか五分間のうちにひとりの捕虜の暴徒を裁断して死刑に処した。ジャン・プルーヴェールが殺されたのも、かかる即席裁判によってだった。実に狂猛なるリンチ法([#ここから割り注]私刑の法[#ここで割り注終わり])であって、それについてはいずれの党派も他を非難する権利を有しない。なぜならそれは、ヨーロッパの王政によって行なわれたとともにまたアメリカの共和政によっても行なわれたからである。そしてこのリンチ法には、また多くの誤解が含まっていた。ある日の暴動のおり、ポール・エーメ・ガルニエというひとりの若い詩人は、ロアイヤル広場で兵士に追跡されてまさに銃剣で突かれんとしたが、六番地の門の下に逃げ込んでようやく助かった。「サン[#「サン」に傍点]・シモン派のひとりだ[#「シモン派のひとりだ」に傍点]」と兵士らは叫んで、彼を殺そうとしたのである。彼はサン・シモン公の追想記を一冊小わきにかかえていた。ひとりの国民兵がその書物の上にサン[#「サン」に傍点]・シモン[#「シモン」に傍点]とい
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