て髷《まげ》や鬢《びん》をふくらすことをせず、髪の中に座型を入れることはなかったので、髪を結うのもごく簡単だった。それからコゼットは窓をあけ、方々を見回して、街路の一部や家の角《かど》や舗石《しきいし》の片すみなどを見ようとし、マリユスの姿が現われるのを待とうとした。しかし窓からは表は少しも見えなかった。その後庭はかなり高い壁でとり囲まれて、幾つかの表庭が少し見えるきりだった。コゼットはそれらの庭を憎らしく思い、生まれて始めて花を醜いものに思った。四つ辻《つじ》の溝《みぞ》の一端でも今は彼女の望みにいっそう叶《かな》うものだったろう。彼女は気を取り直して、あたかもマリユスが空から来るとでも思ってるように空をながめた。
すると、たちまち彼女は涙にくれた。変わりやすい気持ちのせいではなくて重苦しいものに希望の糸が切られたからだった。彼女はそういう地位にあった。彼女は何とも知れぬ恐怖を漠然《ばくぜん》と感じた。実際種々のことが空中に漂っていた。何事も確かなことはわからぬと思い、互いに会えないことは互いに失うことだと思った。そしてマリユスが空から戻って来るかも知れないという考えは、もはや喜ばしいものではなく悲しいもののように思われた。
それから、かかる暗雲の常として、静穏の気が彼女の心にまた起こってき、希望の念と、無意識的なそして神に信頼した微笑とが、心に起こってきた。
まだ家中は眠っていた。あたりは田舎《いなか》のように静かだった。窓の扉《とびら》は一つも開かれていず、門番小屋もしまっていた。トゥーサンはまだ起きていなかったし、父も眠っているのだとコゼットは自然思った。彼女は非常に苦しんだに違いない、また今もなお苦しんでいたに違いない、なぜなら、父が意地悪いことをしたと考えていたからである。しかし彼女はマリユスが必ず来ると思っていた。あれほどの光明が消えうせることは、まったくあり得べからざることだった。彼女は祈った。ある重々しい響きが時々聞こえていた。こんなに早くから大門を開けたりしめたりするのはおかしい、と彼女は言った。しかしそれは、防寨《ぼうさい》を攻撃してる大砲の響きだった。
コゼットの室《へや》の窓から数尺下の所、壁についてるまっ黒な古い蛇腹《じゃばら》の中に、燕《つばめ》の巣が一つあった。巣のふくれた所が蛇腹から少しつき出ていて、上からのぞくとその小さな
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