上にあげたが、それから砲車の上に横ざまに倒れ、そのまま身動きもしなかった。背中がこちらに見えていたが、そのまんなかからまっすぐに血がほとばしり出ていた。弾は胸を貫いたのである。彼は死んでいた。
彼を運び去って代わりの者を呼ばなけれはならなかった。かくて実際数分間の猶予が得られたのである。
九 昔ながらの射撃の手腕
防寨《ぼうさい》の中では種々の意見がかわされた。大砲はまた発射されようとしていた。その霰弾《さんだん》を浴びせられては十五、六分しか支持されない。その力を殺《そ》ぐことが絶対に必要だった。
アンジョーラは命令を下した。
「蒲団《ふとん》の蔽《おお》いをしなくちゃいけない。」
「蒲団はない、」とコンブフェールは言った、「皆負傷者が寝ている。」
ジャン・ヴァルジャンはひとり列から離れて、居酒屋の角《かど》の標石に腰掛け、銃を膝《ひざ》の間にはさんで、その時まで周囲に起こってることには少しも立ち交わらなかった。「銃を持っていて何にもしねえのかな、」とまわりの戦士らが言う言葉をも、耳にしないがようだった。
ところがアンジョーラの命令が下されると、彼は立ち上がった。
読者は記憶しているだろうが、一同がシャンヴルリー街にやってきた時、ひとりの婆さんは弾の来るのを予想して、蒲団《ふとん》を窓の前につるしておいた。それは屋根裏の窓で、防寨《ぼうさい》の少し外にある七階建ての人家の屋根上になっていた。蒲団は斜めに置かれ、下部は二本の物干し竿《ざお》に掛け、上部は二本の綱でつるしてあった。綱は屋根部屋の窓縁に打ち込んだ釘《くぎ》に結わえられ、遠くから見ると二本の麻糸のように見えた。防寨からながめると、その二本の綱は髪の毛ほどの細さで空に浮き出していた。
「だれか私に二連発のカラビン銃を貸してくれ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
アンジョーラはちょうど自分のカラビン銃に弾をこめたところだったので、それを彼に渡した。
ジャン・ヴァルジャンは屋根部屋の方をねらって、発射した。
蒲団の綱の一方は切れた。
蒲団はもはや一本の綱で下がってるのみだった。
ジャン・ヴァルジャンは第二発を発射した。第二の綱ははね返って窓ガラスにあたった。蒲団は二本の竿の間をすべって街路に落ちた。
防寨の中の者は喝采《かっさい》した。
人々は叫んだ。
「蒲団ができた。
前へ
次へ
全309ページ中34ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング