そして彼女は言い進んだ。
「私が親切というのはこういうことですわ。意地っ張りをなさらないで、ここにきてお住みになって、またちょいちょいいっしょに散歩して下すって、プリューメ街のようにここにも小鳥がいますから、私どもといっしょにお暮らしなすって、オンム・アルメ街のひどい家をお引き払いになり、私たちにいろんな謎《なぞ》みたいなことをなさらず、普通のとおりにしていらっして、私どもといっしょに晩餐《ばんさん》もなされば、私どもといっしょに昼御飯もお食べになり、私のお父様になって下さることですわ。」
彼は取られた手を離した。
「あなたにはもう父はいらない、夫《おっと》があるから。」
コゼットは少し気を悪くした。
「私に父がいらないんですって! そんな無茶なことをおっしゃるなら、もう申し上げる言葉もありません。」
「トゥーサンだったら、」とジャン・ヴァルジャンは考えの拠《よ》り所を求めて何でも手当たりしだいにつかもうとしてるかのように言った、「私にはまったくいつも自己一流のやり方があることを、一番に認めてくれるだろう。何も変わったことが起こったのではない。私はいつも自分の薄暗い片すみを好んでいた。」
「でもここは寒うございます。物もよく見えません。そしてジャンさんと言ってくれとおっしゃるのも、あまりひどすぎます。私にあなたなんておっしゃるのもいやです。」
「ところで、さっきここへ来る途中、」とジャン・ヴァルジャンはそれに答えて言った、「サン・ルイ街で私の目についた道具が一つある。道具屋の店先に置いてあった。私がもしきれいな女だったらあの道具をほしがったに違いない。ごくりっぱにできてる新式の化粧台だった。たしかあなたが薔薇《ばら》の木と言っていたあの道具だった。篏木細工《はめきざいく》も施してあった。鏡もかなり大きかった。引き出しもいくつかついていた。実にきれいなものだった。」
「ほんとに人をばかにしていらっしゃるわ!」とコゼットは答え返した。
そしてこの上もないかわいい様子で、歯をくいしばり、脣《くちびる》を開いて、ジャン・ヴァルジャンに息を吹きかけた。それは猫のまねをした美の女神だった。
「私はもう腹が立ってなりません。」と彼女は言った。「昨日《きのう》から、みんなで私にひどいことばかりなさるんですもの。私はほんとに怒っています[#「怒っています」は底本では「恐って
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