そしてマリユスは、おそらく読者が想像するほど心を動かされてはいなかったであろうが、一時間ばかり前から意外な恐ろしいことにもなれてこざるを得なかったし、目の前で一徒刑囚の姿が徐々にフォーシュルヴァン氏の姿に重なってくるのを見、痛むべき現実にしだいにとらえられ、その場合の自然の傾向として、相手と自分との間にできたへだたりを認めざるを得ないようになって、こう言い添えた。
「私は、あなたが忠実にまた正直に返して下すった委託金について、一言も言わないではおられないような気がします。それは実に清廉な行ないです。あなたはその報酬を受けられるのが正当です。どうかあなたから金額を定めて下さい、それだけ差し上げますから。いかほど多くとも御遠慮にはおよびません。」
「御親切は感謝します。」とジャン・ヴァルジャンは穏やかに答えた。
彼はしばらく考え込んで、人差し指で親指の爪《つめ》を機械的にこすっていたが、やがて口を開いた。
「もうほとんど万事すんだようです。そして最後にも一つ残っていますが……。」
「何ですか。」
ジャン・ヴァルジャンはこれを最後というように躊躇《ちゅうちょ》しながら、声という声も出さず、ほとんど息もしないで、言った、というよりむしろ口ごもった。
「すべてを知られた今となっては、御主人としてあなたは、私がもうコゼットに会ってはいけないとお考えになるでしょうか。」
「その方がいいだろうと思います。」とマリユスは冷ややかに答えた。
「ではもう会いますまい。」とジャン・ヴァルジャンはつぶやいた。
そして彼は扉《とびら》の方へ進んでいった。
彼はとっ手に手をかけ、閂子《かんぬき》ははずれ、扉は少し開いた。ジャン・ヴァルジャンは通れるくらいにそれを開き、ちょっと立ち止まり、それからまた扉をしめて、マリユスの方へ向き直った。
彼はもう青ざめてるのではなく、ほとんど色を失っていた。目にはもう涙もなく、ただ悲壮な一種の炎が宿っていた。その声は再び不思議にも落ち着いていた。
「ですが、」と彼は言った、「もしおよろしければ、私は彼女に会いにきたいのです。私は実際それを非常に望んでいます。もしコゼットに会いたくないのでしたら、あなたにこんな自白はしないで、すぐにどこかへ行ってしまったはずです。けれども、コゼットのいる所に留まっており、やはり続けて会いたいと思いますから、すべてを正直に
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