となり、生きた偽りの鍵《かぎ》となり、錠前をこじあけて正直な人の家にはいり込み、決してまっすぐに物を見ず、いつも偸《ぬす》み見ばかりをし、自分の内部に汚辱をいだいていることは、どうして、どうして、どうして! それよりもむしろ、苦しみもだえ、血をしぼり、涙を流し、爪《つめ》で肉体をかきむしり、悩みにもだえて夜を過ごし、自分の心身を自ら食いつくす方が、よほどまさっています。そういうわけで、私はすべてをあなたに話しに参ったのです。おっしゃるとおり自ら好んでです。」
彼は苦しい息をついて、最後の言葉を投げつけた。
「昔私は生きるために、一片のパンを盗みました。そして今日私は、生きるために一つの名前を盗みたくはありません。」
「生きるため!」とマリユスは言葉をはさんだ。「生きるためにその名前があなたに必要なわけはないでしょう。」
「ああ、あなたの言われる意味はよくわかります。」とジャン・ヴァルジャンは答えながら、幾度も続けて頭をゆるく上げ下げした。
それから沈黙が落ちてきた。ふたりとも黙り込んで、深く考えの淵《ふち》に沈んでしまった。マリユスはテーブルのそばにすわり、折り曲げた指の一本の上に口の角をもたせていた。ジャン・ヴァルジャンは歩き回っていた。そして彼は鏡の前に立ち止まり、そこにじっとたたずんだ。それから、映ってる自分の姿も目に入れないで鏡の面をながめながら、あたかも内心の推理に答えるかのように言った。
「でも、これで私は気が安らいだ!」
彼はまた歩き出して、室《へや》の先端まで行った。そして向き返ろうとした時、マリユスが自分の歩いてるのをながめているのに気づいた。その時彼は、名状し難い調子でマリユスに言った。
「私の足は少し引きずり加減になっています。その理由ももうおわかりでしょう。」
それから彼はマリユスの方へすっかり向き直った。
「ところで、まあ仮りにこうなったとしたらどうでしょう、私が何にも言わず、フォーシュルヴァン氏となっており、あなたの家にはいり込み、あなたの家庭のひとりとなり、自分の室をもらい、毎朝楽しく食事をし、晩は三人で芝居に行き、私はテュイルリーの園やロアイヤル広場にポンメルシー夫人の伴をし、皆いっしょに暮らし、私も人並みの人間と思われているとします。しかるにある日、私もそこにおり、あなた方もそこにおられ、いっしょに話をし笑い合っている時に、
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