さい。」
「私は、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「あなたに一つ話したいことがあるんです。私はもと徒刑囚だった身の上です。」
およそ鋭い音は、耳に対すると同じく精神に対しても、知覚の範囲を越すことがある。フォーシュルヴァン氏の口から出た「私はもと徒刑囚だった身の上です[#「私はもと徒刑囚だった身の上です」に傍点]」という言葉は、マリユスの耳に響きはしたが、まとまった意味の範囲を越えたものだった。マリユスは了解しなかった。ただ何か言われたように思えたが、何であるかわからなかった。彼はぼんやりしてしまった。
その時彼は、相手が恐ろしい様子をしてるのに気づいた。彼は自分の喜びに夢中になって、相手のひどく青ざめてるのがそれまで目にはいらなかった。
ジャン・ヴァルジャンは右腕をつっていた黒布を解き、手に巻いていた包帯をはずし、親指を出して、それをマリユスに示した。
「手はなんともなっていません。」と彼は言った。
マリユスはその親指をながめた。
「初めからなんともなかったのです。」とジャン・ヴァルジャンはまた言った。
実際何らの傷痕《きずあと》もなかった。
ジャン・ヴァルジャンは言い続けた。
「私はあなたの結婚の席にいない方がよかったのです。できるだけ出席しないようにつとめました。私は偽証をしないために、結婚の契約書に無効なものをはさまないために、署名することをのがれるために、怪我《けが》をしたと嘘《うそ》を言いました。」
マリユスは口ごもった。
「どういうわけですか。」
「そのわけは、」とジャン・ヴァルジャンは答えた、「私は徒刑場にはいったことがある身だからです。」
「そんなことが!」とマリユスは恐れて叫んだ。
「ポンメルシーさん、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「私は十九年間徒刑場にいました。窃盗のためにです。次に無期徒刑に処せられました。窃盗のためにです。再犯としてです。今では脱走の身の上です。」
マリユスはいたずらに、現実の前にたじろぎ、事実を拒み、明確を排しようとしたが、しかもその本意を屈しなければならなかった。彼はようやくいっさいを了解し始めた。そしてかかる場合の常として、言外のことまで了解した。内心にさしてきた嫌悪《けんお》すべき光に彼は戦慄《せんりつ》を覚えた。慄然《りつぜん》たる一つの観念が彼の精神を過《よ》ぎった。自分にあてられてる一つの
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