、ないであろうか。
 ついにジャン・ヴァルジャンは、喪心の極、平静のうちにはいった。
 彼は計画し、夢想し、光明と陰影との神秘な秤皿《はかりざら》の高低をながめた。
 光り輝くふたりの若者に自分の刑罰を添加すること、もしくは、救う道なき自分の陥没を自分ひとりに止めること。前者はコゼットを犠牲にすることであり、後者は自己を犠牲にすることであった。
 彼はいかなる解決をなしたか。いかなる決心を定めたか。宿命の森厳なる尋問に対して彼が心のうちでなした最後の確答は、何であったか。いかなる扉《とびら》を開こうと彼は決心したか。生命のいかなる方面の扉を、彼はいよいよ閉鎖しようと決心したか。四方をとりまいてる測り知られぬ断崖《だんがい》のうち、いずれを彼は選んだか。いかなる絶端を彼は甘受したか。それらの深淵《しんえん》のいずれに向かって、彼は首肯したか?
 彼の昏迷的《こんめいてき》な夢想は終夜続いた。
 彼はそのまま同じ態度で、寝床の上に身をかがめ、巨大な運命の下に平伏し、おそらくは痛ましくも押しつぶされ、十字架につけられた後|俯向《うつむ》けに投げ出された者のように、拳《こぶし》を握りしめ両腕を十の字にひろげて、夜が明けるまでじっとしていた。十二時間の間、冬の長い夜の十二時間の間、頭も上げず一言も発しないで、凍りついたようになっていた。自分の思念が、あるいは蛇のように地面をはい、あるいは鷲《わし》のように天空を翔《かけ》ってる間、死骸《しがい》のように身動きもしないでいた。その不動の姿は、あたかも死人のようだった。と突然彼は痙攣的《けいれんてき》に身を震わし、その口はコゼットの衣裳に吸い着いて、それに脣《くち》づけをした。彼がなお生きてることを示すものはただそれだけだった。
 それを見ていた者は、だれであるか、だれかであるか? ジャン・ヴァルジャンはただひとりであって、そこにはだれもいなかったではないか。
 否、闇《やみ》の中にある「あの人」が。
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   第七編 苦杯の最後の一口


     一 地獄の第七界と天国の第八圏

 結婚の翌日は寂しいものである。人々は幸福なふたりの沈思に敬意を表し、またその眠りの長引くのに多少の敬意を表する。訪問や祝辞の混雑はしばらく後にしか始まってこないものである。さて二月十七日の朝、もう正午少し過ぎた頃だったが、バスクが布巾
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