ゾン公爵やスービーズ侯爵や顧問官トゥーアル子爵が、がた馬車に乗ってロンシャンの競馬場に行くのを見た時からだ。ところが果たしてそれは実《み》を結んだ。この世紀ではだれでも皆、商売をし、相場をし、金を儲《もう》け、そしてしみったれてる。表面だけを注意して塗り立ててる。おめかしをし、洗い立て、石鹸《せっけん》をつけ、拭《ぬぐ》いをかけ、髯《ひげ》を剃《そ》り髪を梳《す》き、靴墨《くつずみ》をつけ、てかてかさし、みがき上げ、刷毛《はけ》をかけ、外部だけきれいにし、一点のほこりもつけず、小石のように光らし、用心深く、身ぎれいにしてるが、一方では情婦《いろおんな》をこしらえて、手鼻をかむ馬方でさえ眉を顰《しか》むるような、肥料溜《こえだめ》や塵溜《ちりだめ》を心の底に持っている。わしは今の時代に、不潔な清潔という題辞を与えてやりたい。なにマリユス、怒ってはいけないよ。わしに少し言わしてくれ。別に民衆の悪口を言うんじゃない。お前のいわゆる民衆のことなら十分感心してるのだが、中流市民を少しばかりたたきつけてやるのはかまわんだろう。もちろんわしもそのひとりだ。よく愛する者はよく鞭《むち》うつ。そこでわしはきっぱりと言ってやる。今日では、人は結婚をするが結婚の仕方を知らない。まったくわしは昔の風習の美しさが惜しまれる。すべてが惜しまれる。その優美さ、仁侠《にんきょう》さ、礼儀正しい細やかなやり方、いずれにも見らるる愉快なぜいたくさ、すなわち、上は交響曲から下は太鼓に至るまで婚礼の一部となっていた音楽、舞踊、食卓の楽しい顔、穿《うが》ちすぎた恋歌、小唄《こうた》、花火、打ち解けた談笑、冗談や大騒ぎ、リボンの大きな結び目。それから新婦の靴下留《くつしたど》めも惜しまれる。新婦の靴下留めは、ヴィーナスの帯と従姉妹同士《いとこどうし》だ。トロイ戦争は何から起こったか? ヘレネの靴下留めからではないか。なぜ人々は戦ったか、なぜ神のようなディオメーデはメリオネスが頭にいただいてる十本の角のある青銅の大きな兜《かぶと》を打ち砕いたか、なぜアキレウスとヘクトルとは槍《やり》で突き合ったか? それも皆ヘレネが靴下留めにパリスの手を触れさしたからではないか。コゼットの靴下留めからホメロスはイリアードをこしらえるだろう。その詩の中にわしのような饒舌《じょうぜつ》な老人を入れて、それをネストルと名づけるだろう
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