いないのかとも思われた。しかし彼が黙っていたのは、まさしく彼の魂がそこに行ってるからだった。
彼はコゼットがどうなったか少しも知らなかった。シャンヴルリー街の事件はただ一片の雲のように記憶の中に漂っていた。エポニーヌやガヴローシュやマブーフやテナルディエ一家の者や、防寨《ぼうさい》の硝煙にものすごく包まれてる友人らなどは、皆ほとんど見分けのつかないほどの影となって彼の脳裏に浮かんでいた。その血まみれの事件のうちに不思議にもフォーシュルヴァン氏が現われたことは、暴風雨中の謎《なぞ》のように彼には思えた。自分の生命については彼は何にもわからなかった。どうしてまただれから救われたのか少しも知らなかった。周囲の人々にもそれを知ってる者はなかった。周囲の人々から彼が聞き得たことは、辻馬車《つじばしゃ》に乗せられて夜中にフィーユ・デュ・カルヴェール街に運ばれてきたということだけだった。過去も現在も未来も、すべては彼にとって漠然《ばくぜん》たる観念の靄《もや》にすぎなかった。しかしその靄の中に、不動な一点が、明確な一つの形が、花崗岩《かこうがん》でできてるようなある物が、一つの決意が、一つの意志が、存在していた。すなわち再びコゼットに会うことだった。彼にとっては、生命の観念とコゼットの観念とは別々のものではなかった。彼は心のうちで、その一方だけを受け取ることはすまいと決していた。だれでも自分を生きさせようと望む者には、祖父にも運命にも地獄にも、消えうせたエデンの園を戻すように要求してやろうと、決心の臍《ほぞ》を固めていた。
それに対する障害は、彼も自らよく認めていた。
特に一事をここに力説しておくが、祖父のあらゆる親切や慈愛も、彼の心を奪うことは少しもできず、彼の心を和らげることはあまりできなかった。第一、彼はすべてのことをよく知っていなかった。次に、まだおそらく熱に浮かされてる病床の夢想のうちに彼は、自分を懐柔しようとする変な新しい試みと見|做《な》して、祖父のやさしい態度を信じなかった。彼は冷淡にしていた。祖父はそのあわれな老いた微笑を空《むな》しく費やすのみだった。マリユスはこう考えていた。自分が何にも口をきかずなされるままにしている間だけ、祖父も穏やかにしているのだ、しかし問題が一度コゼットのことにおよんだなら、祖父の顔は一変し、その真の態度が仮面をぬいで現われて来
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