とりであった。それはまさしく現実であった。現実がかかる異様な姿になり得るとは、実に呪《のろ》うべきことだった。
もし事実がその本分を守るならば、必ずや事実は法を証明することをしかしないであろう。なぜならば、事実を世に送るものは神であるから。しかるに今や、無政府主義までが天からおりてこようとするのか。
かくて、ますます加わってくる煩悶《はんもん》のうちに、茫然《ぼうぜん》自失した幻覚のうちに、ジャヴェルの感銘を押さえ止め訂正するすべてのものは消えうせ、社会も人類も宇宙も皆、彼の目には爾来《じらい》ただ単に忌まわしいだけの姿となって映じた。そして、刑法、判決、至当なる立法の力、終審裁判所の決定、司法官職、政府、嫌疑と抑圧、官省の知恵、法律の無謬《むびゅう》、官憲の原則、政治的および個人的安寧が立脚するあらゆる信条、国王の大権、正義、法典から発する理論、社会の絶対権、公の真理、すべてそれらのものは、破片となり塵芥《じんかい》となり渾沌《こんとん》たるものとなってしまった。秩序の監視人であり、警察の厳正な僕《しもべ》であり、社会を保護する番犬である、彼ジャヴェル自身も、打ち負かされてしまった。そしてそれらの廃墟の上に、緑の帽を頭にかぶり円光を額にいただいてるひとりの男が立っていた。彼が陥った惑乱はそういうものであり、彼が魂のうちに持った恐るべき幻はそういうものであった。
それはたえ得ることであったろうか。否。
きびしい状態があるとすれば、それこそまさにきびしい状態であった。それから脱する道は二つしかなかった。一つは、決然としてジャン・ヴァルジャンに向かって進んでゆき、徒刑囚たる彼を地牢《ちろう》に返納すること。今一つは……。
ジャヴェルは橋の胸壁を離れ、こんどは頭をもたげて、シャートレー広場の片すみにともってる軒灯で示されている衛舎の方へ、確乎《かっこ》たる足取りで進んでいった。
そこまで行って彼は、ひとりの巡査が中にいるのをガラス戸から認め、自分もはいっていった。衛舎の扉《とびら》のあけ方だけででも、警察の者らは互いにそれと知り得るのである。ジャヴェルは自分の名前を告げ、名刺を巡査に示し、それから一本の蝋燭《ろうそく》がともってるそのテーブルの前にすわった。テーブルの上には、一本のペンと、鉛のインキ壺《つぼ》と、少しの紙とがのっていた。不時の調書や夜間|巡邏《
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