は傷口にはいり込み、上衣のラシャはなまなましい肉の大きな切れ目をじかに擦《こす》っていた。ジャン・ヴァルジャンは指先で服を開いて、その胸に手をあててみた。心臓はまだ鼓動していた。彼は自分のシャツを裂き、できるだけよく傷口を縛って、その出血を止めた。それから薄ら明かりの中で、依然として意識もなくまたほとんど息の根もないマリユスの上に身をかがめ、言葉に尽し難い恨みの情をもって見守った。
 マリユスの服を開く時、ジャン・ヴァルジャンはそのポケットに二つの物を見いだした。前日入れたまま忘れられてるパンと、マリユスの紙ばさみであった。彼はそのパンを食い、次に紙ばさみを開いてみた。第一のページにマリユスが認めた数行が見えた。その文句は読者の記憶するとおりである。

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予はマリユス・ポンメルシーという者なり。マレーのフィーユ・デュ・カルヴェール街六番地に住む予が祖父ジルノルマン氏のもとに、予の死骸《しがい》を送れ。
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 ジャン・ヴァルジャンは風窓からさしこむ光でその数行を読み、しばらく何か考え込んだようにしてたたずみながら、半ば口の中で繰り返した、「フィーユ・デュ・カルヴェール街六番地、ジルノルマン氏。」それから彼は紙挾《かみばさ》みをまたマリユスのポケットにしまった。彼は食を得たので力を回復した。それでマリユスを再び背に負い、その頭を注意して自分の右肩にもたせ、また下水道を下り始めた。
 メニルモンタンの谷に沿って曲がりながら続いてる大溝渠は、およそ二里ほどの長さだった。その間おもな部分には皆石が鋪《し》いてあった。
 ジャン・ヴァルジャンの地下の道筋を読者によくわからせるために、われわれは一々パリーの街路の名前をあげているが、彼自身はもとより炬火《たいまつ》のようなそういう知識を持たなかった。パリーのいかなる地帯を横ぎってるのか、またいかなる道筋をたどってるのか、それを彼に示してくれるものは何もなかった。ただ、時々出会う光の隈《くま》がますます薄くなってゆくので、日光はもう往来にささず日暮れに間もないことが、わかるばかりだった。そして頭の上の馬車のとどろきは、連続してたのが間歇的《かんけつてき》になり、後にはほとんど聞こえなくなってしまったので、もうパリーの中央の地下にいるのではなく、外郭の大通りか出外れの川岸通りかに近いある寂
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