見つけられるようなその残壊物の堆積のうしろに、うまく身を隠そうとでも思っていたのだろうか。それは児戯に類する手段であった。彼も確かにそんなことを考えていたのではあるまい。それほど知恵のない盗人は世にあるものではない。
 残壊物の堆積は水ぎわに高くそびえていて、川岸通りの壁まで岬《みさき》のようにつき出ていた。
 追われてる男は、その小さな丘の所まで行って、それを回った。そのためにもひとりの男からは見えなくなった。
 あとの男は、相手の姿を見ることができなくなったが、それとともに先方から見られることもなくなった。彼はその機会に乗じて、今までの仮面を脱してごく早く歩き出した。間もなく残壊物の丘の所に達して、それを一巡した。そして彼は惘然《ぼうぜん》として立ち止まった。彼が追っかけてきた男はもうそこにいなかった。
 仕事服の男はまったく雲隠れしてしまったのである。
 汀《みぎわ》は残壊物の堆積から先には三十歩ばかりしかなく、川岸通りの壁に打ちつけてる水の中に没していた。
 逃走者がセーヌ川に身を投ずるか川岸通りによじ上るかすれば、必ず追跡者の目に止まったはずである。いったい彼はどうなったのであろう?
 上衣によくボタンをかけてる男は、汀の先端まで進んでゆき、拳《こぶし》を握りしめ目を見張り考え込んで、しばらくたたずんだ。と突然彼は額をたたいた。地面がつきて水となってる所に、分厚《ぶあつ》な錠前と三つの太い肱金《すじかね》とのついてる大きな低い円形の鉄格子《てつごうし》を、彼は認めたのだった。その鉄格子は、川岸通りの下に開いてる一種の門であって、その口は川と汀《みぎわ》とにまたがっていた。黒ずんだ水が下から流れ出ていた。水はセーヌ川に注いでいた。
 その錆《さび》ついた重い鉄棒の向こうに、一種の丸い廊下が見えていた。
 男は両腕を組んで、叱責《しっせき》するような様子で鉄格子を睨《にら》めた。
 しかし睨んだだけでは足りないので、彼はそれを押し開こうとした。そして揺すってみたが、鉄格子はびくともしなかった。何の音も聞こえなかったけれども、たぶんそれは今しがた開かれたはずである。そんな錆ついた鉄格子にしては、音のしなかったのが不思議である。またそれは再び閉ざされたに相違ない。してみれば、つい先刻その門を開いて閉ざした男は、開門鉤《かいもんかぎ》ではなく一つの鍵《かぎ》を持って
前へ 次へ
全309ページ中122ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング