、そしてやはりまっすぐに進み続けていた時に、傾斜を上っているのでないことに気づいた。水の流れは、爪先《つまさき》からこないで、踵《かかと》の方に当たっていた。下水道は今下り坂になっていた。どうしたわけだろう。さてはにわかにセーヌ川に出るのであろうか。セーヌ川に出るのは大なる危険であったが、しかし引き返すの危険は更に大きかった。彼は続けて前に進んだ。
 しかし彼が進みつつあったのはセーヌ川の方へではなかった。セーヌ右岸にあるパリーの土地の高脈は、一方の水をセーヌ川に注ぎ他方の水を大溝渠《だいこうきょ》に注いでいる。分水嶺《ぶんすいれい》をなすその高脈は、きわめて不規則な線をなしている。排水を両方に分つ最高点は、サント・アヴォア下水道ではミシェル・ル・コント街の彼方《かなた》にあり、ルーヴルの下水道では大通りの近くにあり、モンマルトルの下水道では市場町の近くにある。ジャン・ヴァルジャンが到着したのは、その最高点であった。彼は囲繞溝渠《いじょうこうきょ》の方へ進んでいた。道筋はまちがっていなかった。しかし彼はそれを少しも自ら知らなかった。
 枝道に出会うたびごとに、彼はその角《かど》に一々さわってみた。その口が今いる隧道《すいどう》よりも狭い時には、そちらに曲がり込まないでまっすぐに進んでいった。狭い道はすべて行き止まりになってるはずで、目的すなわち出口から遠ざかるだけであると、至当な考えをしたからである。かくして彼は、上にあげておいた四つの迷路によって暗黒のうちに張られてる四つの罠《わな》を、免れることができた。
 時には、防寨《ぼうさい》のため交通が途絶され暴動のため石のように黙々としてるパリーの下から出て、いきいきたる平常のパリーの下にはいったのを、彼は感ずることができた。ふいに頭の上で、雷のような遠い連続した音が聞こえた。それは馬車の響きであった。
 彼は約三十分ばかり、少なくとも自ら推測したところによると約三十分ばかり、歩き続けていたが、なお休息しようとも思わなかった。ただマリユスをささえてる手を代えたのみだった。暗さはいよいよ深くなっていたが、その深みがかえって彼を安心さした。
 突然彼は前方に自分の影を認めた。影は足下の底部と頭上の丸天井とをぼんやり染めてるほのかな弱い赤みの上に浮き出していて、隧道のじめじめした両側の壁の上に、右へ左へとすべり動いた。彼は惘
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