市の」に傍点]泥濘《でいねい》こそ地の大法なり[#「こそ地の大法なり」に傍点]」と神秘な言葉を発した時、彼の心が考えていたのは、使徒や殉教者らが輩出したそれらの貧民や浮浪の徒やみじめな者らのことをであった。
 苦しみそして血をしぼってるこの多衆の激怒、おのれの生命たる主義に反するその暴行、権利に反するその暴挙、などは皆下層民の武断政略《クーデター》であって、鎮圧されなければならないものである。正直なる者はそういう鎮圧に身をささげ、多衆を愛するがゆえにかえってそれと戦う。しかしながら彼は、対抗しながらもいかにそれを宥恕《ゆうじょ》すべきものであるかを感じ、抵抗しながらもいかにそれを貴《とうと》んでいることであろう! おのれのなすべきところをなしながら、足を引き止むるようなある不安な何物かを感ずる稀有《けう》な時期は、かかるところから到来する。人は固執する、固執しなければならない。しかし本心は満足しながらも悲しんでいる。そして義務の遂行のうちに、ある痛心の情が交じってくる。
 直ちに言を進めるが、一八四八年六月の暴動は特殊の事実であって、ほとんど歴史哲学のうちにおいて他と同類に置くことのできないものである。吾人が上に発した言葉はすべて、おのれの権利を要求する労働の聖なる焦慮が感ぜらるるこの異例の暴動に関しては、排除しなければならない。この暴動を人は鎮圧しなければならなかった、それは義務であった、なぜならこの暴動は共和を攻撃したから。しかし根底においては、一八四八年六月は何であったか。それは民衆のおのれ自身に対する反抗であった。
 主題から目を離しさえしなければ、決して岐路に陥るものではない。それでちょっとの間、上にあげたまったく独特な二つの防寨《ぼうさい》に読者の注意を向けさせることを、ここに許していただきたい。その二つの防寨こそ、一八四八年六月の反抗の特質を示すものである。
 一つはサン・タントアーヌ郭外の入り口をふさいでいた、一つはタンプル郭外を防護していた。六月の輝く青空の下にそびえた、この内乱の恐るべき二つの傑作は、見る者に忘るべからざる印象を与えた。
 サン・タントアーヌの防寨は雄魁《ゆうかい》なものだった。高さは人家の三階に及び、長さは七百尺に及んでいた。その郭外の広い入り口すなわち三つの街路を、一方から他方までふさいでいた。凹凸《おうとつ》し、錯雑し、鋸《
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