歩前の所で、ようやく止まった。十七世紀に対しては国王([#ここから割り注]ルイ十四世[#ここで割り注終わり])よりも詩人([#ここから割り注]ラシーヌ[#ここで割り注終わり])の方を尊敬したわけである。その深さはサン・ピエール街が最高で、水口の舗石《しきいし》の上三尺に達し、その広さはサン・サバン街が最高で、二百三十八メートルの距離にひろがった。
 十九世紀の初めにおいても、パリーの下水道はなお神秘な場所であった。およそ泥土《でいど》は決して令名を得るものではないけれども、当時はその悪名が恐怖を起こさせるほどに高かった。パリーは漠然《ばくぜん》と、自分の下に恐ろしい洞穴《どうけつ》があるのを知っていた。一丈五尺もある百足虫《むかで》が群れをなし、怪獣ベヘモスの浴場にもなり得ようという、テーベの奇怪な沼のように人々はそれを思っていた。下水掃除人らの長靴《ながぐつ》も、よく知られてるある地点より先へは決して踏み込まなかった。サント・フォアとクレキ侯とがその上で互いに親交を結んだというあの塵芥掃除人《じんかいそうじにん》の箱車が、下水道の中にそのまま空《あ》けられていた時代、それからあまり遠くない時代だったのである。下水道の浚渫《しゅんせつ》はまったく豪雨にうち任せてあったが、雨水はそれを掃除するというよりも閉塞《へいそく》することの方が多かった。ローマは汚水の溝渠《こうきょ》に多少の詩味を与えてゼモニエ([#ここから割り注]階段[#ここで割り注終わり])と呼んでいたが、パリーはそれを侮辱してトルー・プュネー([#ここから割り注]臭気孔[#ここで割り注終わり])と呼んでいた。科学も迷信も同じ嫌悪《けんお》の情をいだいていた。臭気孔は、衛生にとっても伝説にとっても共に嫌悪《けんお》すべきものだった。大入道がムーフタールの下水道の臭い穹窿《きゅうりゅう》の下に閉じ込められていた。マルムーゼら([#ここから割り注]訳者注 ルイ十五世の時陰謀をはかった青年諸侯[#ここで割り注終わり])の死体はバリユリーの下水道に投ぜられていた。ファゴンの説によると、一六八五年の恐ろしい熱病は、マレーの下水道にできた大きな割れ目から起こったものとのことである。その割れ目は、一八三三年まで、サン・ルイ街の風流馬車の看板が出てる前の方に、大きく口を開いたままであった。またモルテルリー街の下水道の口は、
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