泄《ろうえい》が行なわれる。漏泄とはちょうど適した言葉である。ヨーロッパはかくのごとくして疲弊のうちに滅びてゆく。
フランスについては、損失額は上に述べたとおりである。しかるに、パリーはフランス全人口の二十五分の一を有し、パリー市の糞《ふん》は最上とされているので、パリーの損失高は、フランスが年々失ってる五億のうちの二千五百万フランに当たるとしても、あえて過当の計算ではない。この二千五百万フランを、救済や娯楽の事業に用いたならば、パリーの光輝は倍加するはずである。しかるに市はそれを汚水に投じ去っている。それでかく言うこともできる、パリーの一大浪費、その驚くべき華美、ボージョン([#ここから割り注]訳者注 十八世紀の大富豪[#ここで割り注終わり])式の乱行、遊興、両手で蒔《ま》き散らすような金使い、豪奢《ごうしゃ》、贅沢《ぜいたく》、華麗、それは実に下水道であると。
かくて誤った盲目な社会経済学のために、万人の幸福は水に溺《おぼ》れ、水に流れ、深淵《しんえん》のうちに失われている。社会の富をすくい取るためにサン・クルーの辺に網でも張るべきであろう。
経済上より言えば、右の事実をかく約言することができる、すなわち、パリーは底のぬけた籠《かご》であると。
パリーは模範市であり、各国民からまねられる模型的な完全市であり、理想の住む首都であり、発案と衝動と試験との堂々たる祖国であり、あらゆる精神の住所であり中心地であり、宛然《えんぜん》一国をなす都市であり、未来の発生地であり、バビロンとコリントを結合した驚くべき都であるが、これを上に述べきたった見地から見る時には、南支那の一農夫をして肩を聳《そび》やかさせるであろう。
パリーを模倣するは、自ら貧窮に陥ることである。
その上、古来から行なわれてる愚かなその浪費についてはことに、パリー自身も一つの模倣者である。
この驚くべき愚妄事《ぐもうじ》は新しく始まったことではない。それは決して若気のばかさではない。古人も近代人のようなことをしていた。リービッヒは言う、「ローマの下水道はローマの農夫の繁栄をことごとく吸いつくした。」ローマの田舎《いなか》がローマの下水道によって衰微させられた時、ローマはまったくイタリーを疲弊さしてしまった、そしてイタリーを下水道のうちに投じ去った時、更にシシリーを投じ去り、次にサルヂニアを投じ
前へ
次へ
全309ページ中92ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング