界に味方と敵とを得た。味方は心酔と歓喜とをもってその方へ押し寄せ、敵は各その性質に従ってそれに背を向けた。ヨーロッパの諸君主は、まず初めに、その曙《あけぼの》における梟《ふくろう》のごとくに、おびえ驚いて目を閉じた、そして再びその眼を開いたのはただ威嚇《いかく》せんがためのみであった。それは道理ある恐怖であり、宥恕《ゆうじょ》すべき憤怒である。この不思議なる革命はほとんど突撃の手を振るわなかった。敗亡したる王位に、敵対して血を流すだけの名誉をさえ与えなかった。自由が身自らそこなわんことを常に喜ぶ専制政府の目から見れば、恐るべきものでありながら、しかも静かに手を拱《こまぬ》いてるということが七月革命の錯誤であった。その上、七月革命に対抗して試みられ計画されたところのものは何もなかった。最も不満なる者、最もいら立てる者、最も戦慄《せんりつ》を覚えてる者でさえ、皆それに対して頭を下げたのである。人の利己心と怨恨《えんこん》とがいかに強かろうとも、人間以上の高き手が共に働いてるのを感ぜらるる事件に対しては、ある神秘なる敬意が生ずるものである。
七月革命は、事実を打ち倒す正義の勝利である。光輝に満ちた事柄である。
事実を打ち倒す正義。そこにこそ、一八三〇年の革命の光輝があり、またその温和さがある。勝利ある正義は、少しも暴戻《ぼうれい》たることを要しない。
正義は即ち正であり真である。
正義の特質は、永久に美しく純なることである。事実は、たとい表面上きわめて必然的なものであろうとも、たといその時代の人々から最もよく承認されたものであろうとも、もし単に事実としてのみ存在するならば、もし正義をあまりに少ししか含有しないかあるいはまったく含有しないかするならば、ついには時を経るとともに、必ず畸形《きけい》となり廃物となりまたおそらくは怪物となるの運命を有している。もし事実がいかなる点まで醜くなり得るかを直ちに実見せんと望むならば、何世紀かをへだててマキアヴェリをながめてみるがいい。マキアヴェリは決して悪き天才ではなく、悪魔でもなく、卑劣なみじめな著述家でもなかった。彼はただ事実のみであった。しかも単にイタリーの事実のみではなく、ヨーロッパの事実であり、十六世紀の事実であった。しかし十九世紀の道徳観念の前に立たする時、彼はいかにも嫌忌《けんき》すべきものらしく思われ、また実際嫌忌すべきものである。
この正義と事実との争いは、社会の初めより続いている。その闘争を絶滅せしめ、純なる観念と人間の現実とを混合せしめ、穏かに正義を事実のうちに浸透せしめ事実を正義のうちに浸透せしむること、それこそまさしく賢者の仕事である。
二 悪き縫合
しかしながら、賢者の仕事があるとともにまた巧者の仕事がある。
一八三〇年の革命は早くその歩を止めた。
革命が擱坐《かくざ》するや、巧者らはその蹉跌《さてつ》を寸断する。
巧者らは十九世紀においては、自ら為政家という称号を取った。かくてこの為政家なる言葉は、ついに多少隠語の趣を有するに至った。実際人の知るとおり、巧妙のみしか存しないところには必然に卑小が存する。「巧者」というは「凡人」というに等しくなる。
同様にまた、「為政家」というは時として「反逆人」というに等しい。
それゆえに巧者らの言うところによれば、七月革命のごとき革命は、断ち切られたる動脈であって、すみやかに縫合するを要する。あまりに堂々と宣言されたる正義は他を動揺させる。ゆえに一度正義が確認さるるや、こんどは国家を再び固むるを要する。自由が確保さるるや、こんどは権力を考えなければならない。
その点まではなお賢者は巧者を離れない、しかし既に互いに軽侮し始める。権力もよし、しかし第一に権力とは何ぞや、第二に権力はどこから来るか?
そうつぶやかれる異議に巧者は耳を貸さないがようである、そしてなおおのれの仕事を続ける。
おのれに有利な虚構の上に必要の仮面を着せるに巧みなそれら政治家の言によれば、一民衆が君主政の大陸に属する以上は、それが革命の後に第一に要するところのものは、すなわち一王朝をいただくことである。彼らは言う、かくして該民衆は革命の後に平和を得ることができる、換言すれば、傷を包帯し家を修復するの暇を得ることができる。王家は家の足場を隠し負傷者の病院を庇護《ひご》してくれる。
しかるに、一王朝を迎えることは常に容易の業《わざ》ではない。
厳密に言えば、だれにても天才ある者は、あるいはだれにても幸運なる者は、王たるに足りる。第一例にはボナパルトがあり、第二の例にはイツルビデ([#ここから割り注]訳者注 メキシコの将軍にて一八二二年に自ら皇帝となりし人[#ここで割り注終わり])がある。
しかしながら、いずれの家系といえども皆一王朝となるに足りるということはない。一民族中におけるある点までの年功が必要である。そして数世紀にわたる甲羅《こうら》は即座に得らるるものではない。
もし「為政家」の見地に身を置くならば、そしてもとよりあらゆる保留をなして仮りにではあるが、およそ革命の後に現われきたる王たる者の資格は何であるか? その第一に有効なることができまた実際有効なる資格は、彼が自ら革命派であること、換言すれば、親しくその革命に関与し、自ら手を下し、あるいは危地に陥るか、あるいは名を現わし、あるいは斧《おの》にきらるるか、あるいは剣をふるうかした者であることである。
また王朝たる家柄の資格は何であるか? その家は国民的でなければならない、換言すれば、ある距離をへだてたる革命派で、なしたる行為によってではなく受け入れたる観念によって革命派でなければならない。過去より成っていて歴史的であり、未来より成っていて同感的でなければならない。
第一の諸革命がなぜにひとりの人物たとえばクロンウェルもしくはナポレオンを見いだすのみで満足したか、また第二の諸革命がなぜに一家系たとえばブルンスウィク家もしくはオルレアン家を見いださずんばやまなかったか、その理由は以上のことによって説明さるる。
王家なるものは、各枝が地にたれ根をおろして一本の木になるというあのインドの蛸《たこ》の木にも似ている。各枝は一王朝となることができる。しかしそれはただ、民衆までたれ下がるという条件においてである。
そういうのがすなわち巧者の理論である。
それゆえ次のような大なる技能を要する。成功に災厄の色調を与えて、成功を利用する者どもをも慄然《りつぜん》たらしむること、踏み出す一歩に恐怖の味を添えること、推移の曲線を大きくして進歩をおくらすこと、その曙《あけぼの》の色を鈍くすること、熱狂の酷烈さを公布し減退させること、圭角《けいかく》を削り爪牙《そうが》を切ること、勝利を微温的たらしむること、正義に衣を被《き》せること、巨人たる民衆にすみやかに寝間着をきせ床につかせること、過度の健康者を断食させること、ヘラクレスのごとき勇者に病後の人のごとき待遇を与えること、事変を術数のうちに丸め込むこと、理想に渇してる精神に麦湯を割った酒を与うること、あまりみごとな成功を得ないよう注意すること、革命に日除幕《ひよけ》を施すこと。
一八三〇年は、既に一六八八年にイギリスにおいて適用されたこの理論を実行した。
一八三〇年は、中途にして止まった革命である。半端《はんぱ》の進歩であり、準の正義である。しかしながら理論は「ほとんど」ということを認めない、あたかも太陽が蝋燭《ろうそく》の光を認めないと同様に。
およそ革命を中途にして止めさせるものはだれであるか? 中流民である。
なぜであるか?
中流民とは満足の域に達してる利益にほかならないからである。昨日は欲望を有していた、今日ははや満ち足っている、明日は既に飽満するであろう。
ナポレオンの後一八一四年に起こった現象は、シャール十世の後一八三〇年に再び現われた。
中流民を社会の一階級となさんとしたのは誤りである。中流民とは単に民衆のうちの満足してる部分にすぎない。中流民とは今や腰をおろす暇を持ってる者を言う。椅子《いす》は一つの門族を作るものではない。
しかしあまりに早く腰をおろそうと欲するために、人類の進行をも止めさせることがある。それがしばしば中流民の誤りであった。
けれど一つの誤りをなすからと言って一階級を作るものではない。利己心は社会の部門の一つを作りはしない。
その上、たとい利己心に対してさえ人は正当であらなければならない。一八三〇年の動揺の後に、中流民と称せらるる一部分の国民が切望していた状態は、無関心と怠惰とを交じえ多少不名誉を含む無為の状態ではなかった。夢に近い一時の忘却を思わする微睡ではなかった。それは実に停止だったのである。
停止とは、不思議なほとんど矛盾せる二重の意味から成ってる言葉である、進軍すなわち運動と、駐軍すなわち休息と、二重の意味から。
停止とは、力の回復である。武装し目ざめた休息である。歩哨《ほしょう》を出し警戒を怠らないでき上がった事実である。それは昨日の戦いと明日の戦いとを前提とする。
それは、一八三〇年と一八四八年と(七月革命と二月革命と)の中間の時期である。
ここに吾人が戦いと言うところのものは、また進歩と呼んでもさしつかえない。
ゆえに中流民にとっては、為政家にとってと同じく、この「停止」という言葉を発する者がひとり必要であった。「だけどまあ」のひとりが、革命を意味するとともに安定を意味する混合式のひとりが、換言すれば、明瞭に過去と未来とを両立させることによって現在を固むるひとりが。
そういう男がひとり「ちょうど見当たった」。その名をルイ・フィリップ・ドルレアンと言った。
二百二十一人の者がルイ・フィリップを王とした。ラファイエットがその即位式をつかさどった。彼はそれを最上の共和政[#「最上の共和政」に傍点]と呼んだ。パリーの市庁はランスの大会堂([#ここから割り注]訳者注 以前歴代の国王が即位式を上げし場所[#ここで割り注終わり])の代わりとなった。
この半王位を全王位に置換したことが、すなわち「一八三〇年の事業」であった。
巧者らがその業を終えた時、彼らの解決の大なる欠陥が現われてきた。すべてそれらは絶対の正義を外にしてなされたものであった。絶対の正義は叫んだ、「予は抗議す!」と。そして恐るべきことは、彼は影のうちに再びはいっていったのである。
三 ルイ・フィリップ
およそ革命なるものは、恐ろしき腕と堪能なる手とを有している。その打撃は的確であり、その選択は巧妙である。そして一八三〇年の革命のごとく、たとい不完全であり、変性で雑種であり、幼稚なる状態になされたるものであろうとも、なお常にかなりの天意的清明さをそなえているものであって、悲しき終末をきたすものではない。その消滅も決して廃棄とはならない。
けれどもあまりに高い自負を有してはいけない。革命とてもまた誤りを犯すことがあり、重大なる錯誤が見らるることもある。
一八三〇年に立ち戻ってみよう。一八三〇年は、本道からはずれながらも仕合わせであった。中途に歩を止めた革命の後にいわゆる秩序と称せられた建設のうちにあって、王は王位そのものよりもよほどすぐれていた。ルイ・フィリップはまれな人物だったのである。
歴史的見地よりすれば確かに酌量《しゃくりょう》すべき情状のある父親を持っていたが、しかし父親が非難に相当するとともに、彼は尊敬に相当する人物だった。あらゆる私の徳を有し、多くの公の徳を有していた。自分の健康と財産と身体と仕事とによく意を用いていた。一瞬間の価をよく知っており、常にとは言えないが一年の価も知っていた。節制で快暢《かいちょう》で温和で忍耐強かった。善良な人であり、善良な君主であった。常に正妻とともに寝ね、宮廷内の従僕らに命じて市民に正しい臥床《がしょう》を見さした。それは規律ある奥殿を誇示せんがためであったが、本家([#ここから割り注]訳者注 ルイ・フィ
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