彼女に会うこともできないのか!」と彼は自らくり返した。
サン・ジャック街を進んでゆき、市門を横に見て、郭内の古い大通りをしばし左にたどってゆくと、サンテ街に達し、次にグラシエールの一郭に達し、それからゴブランの小川に至りつく少し前で、一種の野原に出られる。それはパリーをとりまく長い単調な大通りのうちで、ルイスダール([#ここから割り注]訳者注 オランダの風景画家[#ここで割り注終わり])にも腰をおろさせそうな唯一の場所である。
何から来るとも知れない優雅な趣がそこにある。綱が張られて布が風にかわいてる緑の草原、おかしなふうに屋根窓がつけられてる大きな屋根のルイ十三世ごろの古い農園の建物、こわれかけた籬《まがき》、白楊樹の間の小さな池、婦人、笑い声、人声、また遠く地平には、パンテオンの殿堂や聾唖院《ろうあいん》の大木やヴァル・ド・グラース病院の建物などが、黒く太く異様におもしろく美しく重なり合い、更に向こうには、ノートル・ダームの塔のいかめしい四角な頂がそびえている。
その場所はわざわざながめに行くに足るほどの景色だったが、だれもやって来る者はなかった。十分二十分とたたずんでも、ほとんど荷車一つも人夫ひとりも通らなかった。
ところがある時、孤独な散歩を続けてるマリユスは偶然その池の近くの所までやって行った。その日は珍しくも大通りにひとりの通行人があった。マリユスはその地の寂しい景色に何となく心ひかれて、通行人に尋ねた。「ここは何という所ですか。」
通行人は答えた。「雲雀《ひばり》の野と言います。」
それから通行人はまた言い添えた。「ユルバックがイヴリーの羊飼いの女を殺したのはここです。」
しかし雲雀([#ここから割り注]アルーエット[#ここで割り注終わり])という言葉を聞いて後は、マリユスの耳には何もはいらなかった。夢想の状態にあっては、わずか一言でたちまちに凝結をきたすことがある。すべての考えは突然一つの観念のまわりに凝集して、もはや他に何物をも認むることができなくなる。アルーエットというのは、マリユスの深い憂鬱《ゆううつ》の底において、ユルスュールというのに代わってる呼び名だった。不思議な独語によくある訳のわからぬ呆然《ぼうぜん》さのうちで彼は言った。「あ、これが彼女の野か。ではここで彼女の住居もわかるだろう。」
いかにもばかげたことではあったが、そう思わざるを得なかったのである。
そして彼は毎日、その雲雀《ひばり》の野へやってきた。
二 牢獄のうちに芽を出す罪悪
ゴルボー屋敷におけるジャヴェルの勝利は完全らしく思えたが、実際はそうでなかった。
第一に、そしてジャヴェルの主要な懸念もその事にあったが、彼はそこに虜《とりこ》になってた男を捕えることができなかった。逃走する被害者は加害者よりも更に疑わしいものである。悪漢どもにとってあれほど貴重な捕虜だったその男は、たぶん官憲にとっても同じく大事な捕獲物だったに違いない。
次に、モンパルナスもジャヴェルの手をのがれた。
この「おしゃれの悪魔」に手をつけるには、更に他の機会を待たなければならなかった。事実を言えば、モンパルナスは大通りの並み木の下で見張りをしてるエポニーヌに出会って、父親といっしょにシンデルハンネス([#ここから割り注]死刑に会う盗賊[#ここで割り注終わり])たらんよりも娘とともにネモラン([#ここから割り注]遊惰者[#ここで割り注終わり])たらんことを望んで、彼女をよそに連れていったのである。それが彼には仕合わせとなった。彼は免れた。エポニーヌの方はジャヴェルの手で「あげられた。」しかしそれはジャヴェルのつまらない腹癒《はらい》せだった。エポニーヌはアゼルマといっしょにマドロンネット拘禁所に入れられた。
終わりに、ゴルボー屋敷からフォルス監獄へ行く途中で、主要な捕虜のひとりたるクラクズーが姿を消した。どうして逃げたか少しもわからなかった。彼は煙にでもなったのか、指錠の中にでもはいり込んだのか、馬車の割れ目にでも流れ込んだのか、馬車が裂けでもしてそこから逃げ出したのか、刑事や巡査らにも「まったく訳がわからなかった。」ただわかったことは、監獄につくともうクラクズーはいないということだった。それには妖精《ようせい》か警官かが手を貸したに違いなかった。クラクズーは一片の雪が水の中にとけ込むように闇《やみ》の中にとけ込んでしまったのであろうか。警官らの方でひそかにかくまったのであろうか。彼は無秩序と秩序との両方にまたがる怪しい男だったのであろうか。彼は犯罪と取り締まりと両方に属する男だったのであろうか。この謎《なぞ》の男は前足を罪悪のうちにつっ込み、後足を官憲のうちにつっ込んでいたのであろうか。ジャヴェルはそういう二またの考えを認め
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