黷ヘ明白なまた恐ろしいことであった。
 ジャン・ヴァルジャンは鏡の前に進んだ。そして数行の文字を再び読み返したが、現実だとは信じ得なかった。あたかも稲妻の中に現われたもののような気がした。おそらく幻覚であろう。あり得べからざることである。実際に存しないことである。
 けれどもしだいに彼の知覚はますますはっきりしてきた。彼はコゼットの吸い取り紙をながめ、再び現実の感が戻ってきた。彼は吸い取り紙を取り上げて言った。「これからきたんだ。」そして吸い取り紙の上に残ってる数行を、変な形になってる逆の文字を、熱心に調べてみたが、何の意味をも読み取ることはできなかった。その時彼は自ら言った、「これはまったく意味のないことだ、何も書いてあるわけではない。」そして言うべからざる安堵《あんど》の思いに深く息をした。およそだれか、恐るべき瞬間においてかかる愚かな喜悦を感じなかった者があろうか。人の魂は、あらゆる幻を汲みつくした後でなければ、容易に絶望に屈しないものである。
 彼は吸い取り紙を手に持って、他愛もない喜びに浸り、欺かれた幻覚に対して今にも笑い出さんばかりになり、それをじっとうちながめた。ところが突然、彼の目はまた鏡の上に落ちて、そこに再び幻を見た。数行の文字は、ごまかし得ない明確さで再び現われていた。こんどはもはや幻覚ではなかった。幻も二度まで現わるればもはや現実となる。それははっきり知覚し得らるるものであった。鏡の中に映し出された文字だった。彼は了解した。
 ジャン・ヴァルジャンはよろめいて、吸い取り紙を手から落とし、食器棚《しょっきだな》の傍《そば》にある古い肱掛《ひじか》け椅子《いす》に倒れかかり、頭をたれ、目を白くし、昏迷《こんめい》に陥った。彼は自ら言った、これは明瞭なことである、世の光は永久に陰ってしまった、コゼットはそれをだれかに書いたのであると。その時彼は、自分の魂が再び獰猛《どうもう》になって、闇《やみ》の中に鈍いうなり声を発してるのを聞いた。今は直ちに、檻《おり》の中に入れていた自分の犬を獅子《しし》の手から奪い返しに行くべきである!
 奇怪なまた悲しいことではあるが、その時マリユスはまだコゼットの手紙を受け取っていなかった。偶然の機会は、それをマリユスに渡す前に不実にもジャン・ヴァルジャンに渡してしまったのである。
 ジャン・ヴァルジャンはその日に至るまで、いまだかつていかなる試練にも屈したことはなかった。彼は幾多の恐るべき試みに会ってきた。あらゆる不運の道をことごとく通ってきた。凶猛なる運命は、あらゆる追求と社会的迫害とをもって、彼を目ざして襲いかかってきた。しかし彼はいかなるものの前にも退かず撓《たゆ》まなかった。やむを得ざる場合にはいかなる難事をも甘んじて受けた。回復し得た犯すべからざる人権をも犠牲に供し、自由をも捨て、おのれの首をも危険にさらし、すべてを失い、すべての苦しみをなめ、しかも常に打算を排し私念を去り、時としては殉教者にも等しいと思われるくらいにおのれを空《むな》しゅうした。かくて不運のあらゆる襲撃に鍛えられた彼の本心は、永久に難攻不落なるかの観があった。しかるに今、彼の内心をのぞいてみると、それが弱っていることを認めざるを得ないのだった。
 というのも、宿命の長い審問のうちにおいて彼が受けたあらゆる拷問の中で、こんどのものこそ最も恐るべきものだったからである。かつて彼はかかる激しい責め道具に掛かったことはなかった。彼は内心のあらゆる感受性が異様に痙攣《けいれん》するのを感じた。まだ知らない神経がつみ取られるのを感じた。ああ最後の試練は、否むしろ唯一の試練は、愛する者を失うということである。
 あわれなる老いたるジャン・ヴァルジャンは、確かにただ普通の父と同じ愛情でコゼットを愛していた。しかし前に注意しておいたとおり、その父たる愛情のうちには生涯の孤独から来るあらゆる愛情が混じていた。彼はコゼットを、娘として愛し、母として愛し、妹として愛していた。また彼はかつて情婦を持たず妻を持たなかったので、そしてまた自然はいかなる支払い拒絶をも許さない債権者のごときものであるから、あらゆる感情のうちで最も根深いあの感情もまた、彼の他の愛情のうちに交じっていた。しかしそれはただ、漠然《ばくぜん》たるものであり、無知なるものであり、盲目的に純潔なものであり、無意識的なものであり、天国的な天使的な神聖なものであって、感情というよりもむしろ本能であり、本能というよりもむしろ、感じ難い見え難いしかも現実なる一つの牽引《けんいん》の情にすぎなかった。いわゆる恋情というものは、コゼットに対する彼の広大な愛情のうちにあっては、あたかも人跡を絶した暗黒な山岳のうちにある一筋の黄金脈のごときものであった。
 上に指摘してきた心の
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