B僕は知ってる。マブーフ老人というんだ。今日はどうしてあんなことをしたのか僕にもわからない。無能な好人物だったがな。あの頭を見たまえ。」
「頭は無能でも、心はブルツス([#ここから割り注]訳者注 シーザーを刺した人[#ここで割り注終わり])だ。」とアンジョーラは答えた。
それから彼は声をあげた。
「諸君、これは老人が青年に示した模範である。われわれが躊躇《ちゅうちょ》してる所に、彼は出てきた。われわれが後ろに隠れてるのに、彼は前に進んだ。老年に震える人が恐怖に震える者に与えた教訓である。この老人は祖国の前においては偉大なるものである。彼は長き生と赫々《かっかく》たる死とを得たのである。今やわれわれはその死屍《しかばね》を保護しようではないか。われわれは皆、生ける父をまもるがようにこの死せる老人をまもろうではないか。そして、われわれのうちに彼があることをもって、防寨《ぼうさい》を難攻不落のものたらしめようではないか!」
沈鬱《ちんうつ》な力強い賛成のささやきが、その言葉に続いて起こった。
アンジョーラは身をかがめ、老人の頭をもたげ、猛然たる様子でその額に脣《くちびる》を当てた。それから彼は、死体の両腕を伸ばし、あたかもどこかを痛めはしないかと恐れるもののように細心な注意をしながら、その上衣をぬがせ、血のにじんだ多くの穴を皆に示しながら言った。
「今は、これこそわれわれの軍旗である。」
三 ガヴローシュにはアンジョーラの短銃が適す
マブーフ老人の死体の上には、ユシュルー上《かみ》さんの長い黒い肩掛けがかぶせられた。六人の男の銃で担架《たんか》を作り、それに死体をのせ、皆脱帽して荘厳な徐行で、居酒屋の下の広間の大きなテーブルの上に運んでいった。
それらの人々は、現在行なってるおごそかな神聖な仕事に気を取られて、もう危険な地位にあることも忘れてしまっていた。
死体が、元のとおり平然としているジャヴェルのそばを通った時、アンジョーラは彼に言った。
「貴様の番もすぐだ。」
その間少年ガヴローシュは、ただひとり部署を去らずに見張りをしていたが、数名の男がひそかに防寨《ぼうさい》に近づいて来るらしいのを見た。突然彼は叫んだ。
「気をつけろ!」
クールフェーラック、アンジョーラ、ジャン・プルーヴェール、コンブフェール、ジョリー、バオレル、ボシュエ、およびその他の者が、どっと居酒屋から出てきた。ほとんど間に合いかねるほどだった。見ると、銃剣の密集したひらめきが防寨の上に押し寄せていた。長躯《ちょうく》の市民兵が侵入してきたのである。あるいは乗り合い馬車をまたぎ越え、あるいは防寨の切れ目からはいり込んで、逃げもしないで徐々に後退してる浮浪少年を追いつめていた。
危機一髪の場合だった。洪水の折り、河水が堤防とすれすれに高まってそのすき間からあふれはじめるのと同じ、恐るべき瞬間だった。も一秒後れていたら、防寨《ぼうさい》は奪われていたに違いない。
バオレルはまっさきにはいり込んできた市民兵におどりかかり、カラビン銃をさしつけて一発の下にそれを殺した。しかし彼は次の市民兵から銃剣で殺された。またクールフェーラックも、もひとりの兵に打ち倒されて、「きてくれ!」と叫んでいた。兵士のうちでも巨人のような一番大きな男が、銃剣をつき出しガヴローシュをめがけて進んできた。浮浪少年はその小さな胸にジャヴェルの大きな銃を持ち、決然とその大男をねらい、引き金を引いた。しかしそれは発火しなかった。ジャヴェルは銃に弾薬をこめていなかったのである。市民兵は大笑して、銃剣を彼の上にさしつけた。
しかるにその銃剣がガヴローシュの身に触れる前に、銃は兵士の手から落ちた。一発の弾が飛びきたって、彼の額のまんなかを貫き彼をあおむけにうち倒した。また第二の弾は、クールフェーラックに襲いかかっていた兵士の、胸の中央に命中して、それを舗石《しきいし》の上に仆《たお》した。
それは、ちょうど防寨の中にはいってきたマリユスの仕業《しわざ》だった。
四 火薬の樽《たる》
マリユスは、しばらくモンデトゥール街の角《かど》に隠れて、戦いの最初の光景を見ながら、なお決断しかねて身を震わしていた。けれども、深淵《しんえん》の呼び声とも言うべき神秘な荘厳な眩惑《げんわく》に、彼は長く抵抗することができなかった。切迫してる危機、悲愴《ひそう》な謎《なぞ》たるマブーフ氏の死、殺されたバオレル、「きてくれ!」と叫んでるクールフェーラック、追いつめられてる少年、それを助けあるいはその讐《あだ》を報ぜんとしている友人ら、それらを眼前に見ては、あらゆる躊躇《ちゅうちょ》の情も消え失せてしまい、二梃《にちょう》のピストルを手にして混戦のうちにおどり込んだ。そして第一発で
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