ぶん昔フォルス公爵の料理場の煙筒だったものであろうが、暖炉の大きな煙筒が、一階から五階まで通っていて、各寝室をすべて二つに区切り、平たい柱のようにしつらえてあって、それから屋根までつきぬけていた。
グールメルとブリュジョンとは同じ寝室にはいっていた。そして用心のため下の寝室に入れられていた。ところが偶然にも、彼らの寝台の頭部は暖炉の煙筒に接していた。
テナルディエはちょうど、望楼と言われた上層のうちにいて、彼らの頭の上になっていた。
キュルテュール・サント・カトリーヌ街に足を止める通行人には、消防夫|屯所《とんしょ》の向こう、湯屋の表門の前に、花卉《かき》や盆栽がいっぱい並べてある中庭が見える。その中庭の奥には、緑の窓の戸で風致を添えた白い小さな丸屋根の家が両翼をひろげて、ちょうどジャン・ジャック・ルーソーの田園の夢想を実現したように建っている。しかし今から十年前までは、その丸屋根の家の上に高く、黒い大きな恐ろしい裸壁が立っていて、家はそれによりかかったようになっていた。それはフォルス監獄の外回りの路地の壁だった。
丸屋根の背後の壁はちょうど、ベルカン([#ここから割り注]訳者注 フランスのやさしい叙情詩人[#ここで割り注終わり])の向こうに見ゆるミルトンのごときものであった。
その壁はごく高かったが、上には更にいっそうまっ黒な屋根が一つ見えていた。新館の屋根だった。それには鉄格子《てつごうし》をはめた四つの屋根裏の窓が見えていて、それが望楼の窓だった。屋根をつきぬけている一つの煙筒は、各寝室を通ってる暖炉の煙筒だった。
新館の上層たる望楼は、屋根裏の一種の大広間で、三重の鉄格子《てつごうし》がはめてあり、大|鋲《びょう》をうちつけた二重鉄板の扉《とびら》でしめ切ってあった。北の端からはいってゆくと、左手に四つの軒窓があり、右手にその軒窓と向かい合って、四つのかなり広い大きな四角な檻《おり》があって、狭い廊下でそれぞれへだてられ、人の背たけくらいまでは泥《どろ》で作られ、それから上は屋根までずっと鉄格子で作られていた。
テナルディエは二月三日の晩以来、その檻の一つに秘密監禁にされていた。デリューの発明になったといわるる葡萄酒《ぶどうしゅ》で、麻酔剤が少しはいっており、アンドルムール([#ここから割り注]催眠剤を用うる盗賊[#ここで割り注終わり])の仲間が名高くした葡萄酒があるが、テナルディエはその一瓶《ひとびん》をそこで手に入れて隠していた。どうしてそれができたか、まただれの手助けによってだったかは、ついに明らかにされることができなかった。
たいていの監獄には、裏切りの属吏がいるもので、彼らは獄丁と盗賊とを兼ね、囚人の脱走を助け、不実な役目を警察に売りつけ、給金をしぼり取るのである。
さて、ガヴローシュが往来にさ迷っていたふたりの子供を拾い取ったその夜、ブリュジョンとグールメルとは、その朝脱走したバベがモンパルナスとともに往来に待ち受けているのを知って、静かに起き上がり、ブリュジョンが見つけた一本の釘《くぎ》で、寝台に接した暖炉の煙筒を破り始めた。破片はブリュジョンの寝台の上に落ちて、音を出さなかった。驟雨《しゅうう》は雷鳴に交じって、扉を肱金《ひじがね》の上に揺すぶり、監獄の中は好都合な恐ろしい響きに満ちていた。目をさました囚人らはまた眠ったふうをして、グールメルとブリュジョンとをなすままにさしておいた。ブリュジョンは器用であり、グールメルは力があった。寝室の中が見通せる鉄格子のついた分房に眠ってる監視人の耳に、その物音がはいらないうちに、ふたりはもう煙筒の壁に穴をあけ、その中をよじ上り、上の口をふさいでる金網をつき破った。そしてふたりの恐るべき盗賊は屋根の上に出た。風雨はますます激しくなって、屋根の上ではすべり落ちそうだった。
「足ぬき([#ここから割り注]脱走[#ここで割り注終わり])にはもってこいの黒んぼ(夜)だ!」とブリュジョンは言った。
距離六尺深さ八十尺の淵《ふち》が、囲いの壁から彼らをへだてていた。その淵の底には、番兵の銃が闇《やみ》の中に光っていた。彼らは今ねじまげた煙筒の金網の一端に、ブリュジョンが地牢《ちろう》の中でよった綱を結びつけ、囲いの壁越しに他の端を投げやり、一躍して淵を飛び越え、壁の屋根木につかまり、壁をまたぎ越し、ひとりずつ綱にすがってすべりおり、湯屋の隣の小さな屋根の上に達し、綱を引きおろし、湯屋の中庭に飛びおり、庭をぬけ、門番の引き戸を押し開き、そのそばにたれ下がってる門の綱を引き、大門を開き、そして往来に出てしまった。
彼らが釘《くぎ》を手にし、頭に計画を立てて、暗い中に寝床の上に起きあがってから、それまで四、五十分もたってはいなかった。
それからすぐに彼らは、そ
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