いようにごく静かに歩くことにしています。先夜はあなたの後ろに私は立っていました。そしてあなたがふり向かれたので、逃げ出してしまいました。一度はあなたが歌われるのを聞きました。ほんとにうれしく思いました。あなたが歌われるのを雨戸越しに聞くことが、何か邪魔になりますでしょうか。別にお邪魔になりはしませんでしょう。いいえ、そんなはずはありません。まったくあなたは私の天使《エンゼル》です。どうか時々私にこさして下さい。私はもう死ぬような気がします。ああ私がどんなにあなたをお慕いしているか、それを知ってさえいただけたら! どうか許して下さい。あなたにお話してはいますが、何を言ってるか自分でも分りません。あるいはお気にさわったかも知れません。何かお気にさわったでしょうか?」
「おおお母様!」と彼女は言った。
そして今にも死なんとするかのように身をささえかねた。
彼は彼女をとらえた。彼女は倒れかかった。彼はそれを腕に抱き取った。彼は何をしてるか自ら知らないで彼女をひしと抱きしめた。自らよろめきながら彼女をささえた。頭には煙がいっぱい満ちたかのようだった。閃光《せんこう》が睫毛《まつげ》の間にちらついた。あらゆる考えは消えてしまった。ある敬虔な行ないをしてるようにも思われ、ある冒涜《ぼうとく》なことを犯してるようにも思われた。その上彼は、自分の胸に感ずるその麗わしい婦人の身体に対して、少しの情欲をもいだいていなかった。彼はただ愛に我を忘れていた。
彼女は彼の手を取り、それを自分の胸に押しあてた。彼はそこに自分の手記があるのを感じた。彼は口ごもりながら言った。
「では私を愛して下さいますか。」
彼女はわずかに聞き取れる息のような低い声で答えた。
「そんなことを! 御存じなのに!」
そして彼女はそのまっかな頬《ほお》を、崇高な熱狂せる青年の胸に埋めた。
彼は腰掛けの上に身を落とした。彼女はそのそばにすわった。彼らはもはや言うべき言葉もなかった。空の星は輝き出した。いかにしてか、二人の脣《くちびる》は合わさった。いかにしてか、小鳥は歌い、雪はとけ、薔薇《ばら》の花は開き、五月は輝きいで、黒い木立ちのかなたうち震う丘の頂には曙《あけぼの》の色が白んでくる。
一つの脣《くち》づけ、そしてそれはすべてであった。
ふたりとも身をおののかした、そして暗闇《くらやみ》の中で互いに輝く目と目を見合った。
彼らはもはや、冷ややかな夜も、冷たい石も、湿った土も、ぬれた草も、感じなかった。彼らは互いに見かわし、心は思いに満たされた。われ知らず互いに手を取り合っていた。彼女は彼に何も尋ねなかった。どこから彼がはいってきたか、どうして庭の中に忍びこんできたか、それを彼女は思ってもみなかった。彼がそこにいたのはきわめて当然なことのように思われたのだった。
時々、マリユスの膝《ひざ》はコゼットの膝に触れた。そしてふたりは身をおののかした。
長く間をおいては、コゼットは一、二言口ごもった。露の玉が花の上に震えるように、彼女の魂はその脣の上に震えていた。
しだいに彼らは言葉をかわすようになった。満ち足りた沈黙に次いで溢出《いっしゅつ》がやってきた。夜は彼らの上に朗らかに輝き渡っていた。精霊のごとく潔《きよ》らかなふたりは、互いにすべてを語り合った、その夢想、その心酔、その歓喜、その空想、その銷沈《しょうちん》、遠くからいかに慕い合っていたかということ、いかに憧《あこが》れ合っていたかということ、互いに会えなくなった時、いかに絶望に陥ったかということ。彼らは既にもうこの上進むを得ない極度の親密さのうちに、最も深い最も秘密なものまでも互いに打ち明け合った。幻のうちに率直な信念をいだいて、愛や青春やまだ残っている子供心などが、彼らの頭のうちにもたらすすべてのものを、互いに語り合った。二つの心は互いにとけ合って、一時間とたつうちに、青年は若い娘の魂を得、若い娘は青年の魂を得た。彼らは互いに心の底の底にはいり込み、互いに魅せられ、互いに眩惑《げんわく》した。
すべてすんだ時、すべてを語り合った時、彼女は彼の肩に頭をもたして、そして尋ねた。
「あなたのお名は?」
「マリユスです。」と彼は言った。「そしてあなたは?」
「コゼットといいますの。」
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第六編 少年ガヴローシュ
一 風の悪戯《いたずら》
一八二三年以来、モンフェルメイュの宿屋はしだいに非運に傾いて、破産の淵《ふち》へというほどではないが、多くの小さな負債の泥水《どろみず》の中に沈んでいった。その頃テナルディエ夫婦の間には別にふたりの子供ができていた。ふたりとも男だった。それでつまり五人の子供になるわけで、ふたりは女の児で三人は男の子だった。そして五人とは少し多すぎた。
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