後に彼はベンチから立ち上がって帰ろうとした。その時コゼットは言った、「もうですか!」
 ジャン・ヴァルジャンはリュクサンブールへの散歩をとめはしなかった。何もきわ立ったことをしたくなかったのと、またことにコゼットの注意をひくのを恐れたからである。しかしコゼットはマリユスに微笑を送り、マリユスはそれに酔いそれだけに心を奪われ、今はただ光り輝く愛する顔のほかは世に何物をも見ないで、ふたりの愛人にとってのいかにも楽しい時間が続いたが、その間ジャン・ヴァルジャンは、恐ろしい光った目をマリユスの上に据えていた。ついにもはや悪意ある感情をいだくことはなくなったと自ら信じている彼にも、マリユスがそこにいる時には、再び野蛮に獰猛《どうもう》になるのを感ずる瞬間があって、昔多くの憤怒を蔵していた古い心の底が、その青年に対してうち開きわき上がってくるのを感じた。あたかも未知の噴火口が自分のうちに形成されつつあるかのように思われるのだった。
 ああ、あの男がそこにいる。何をしにきているのか。彷徨《ほうこう》しかぎ回りうかがい試しにきてるのだ。そして言っている、「へん、どうしてそれがいけないというのか。」彼はこのジャン・ヴァルジャンの所へやってきて、その生命のまわりを徘徊《はいかい》し、その幸福のまわりを徘徊して、それを奪い去ろうとしているのだ。
 ジャン・ヴァルジャンはつけ加えて言った。「そうだ、それに違いない! いったい彼は何をさがしにきているのか。一つの恋物語をではないか。何を求めているのか。ひとりの愛人をではないか。愛人! そしてこの私は! ああ、最初には最もみじめな男であり次には最も不幸な男であった後、六十年の生涯をひざまずいて過ごしてきた後、およそ人のたえ得ることをすべてたえ忍んできた後、青春の時代を知らずに直ちに老年になった後、家族もなく親戚もなく友もなく妻もなく子もなくて暮らしてきた後、あらゆる石の上に、荊棘《いばら》の上に、辺境に、壁のほとりに、自分の血潮をしたたらしてきた後、他人よりいかに苛酷《かこく》に取り扱われようとも常に温和であり、いかに悪意に取り扱われようとも常に親切であった後、いっさいのことを排して再び正直な人間となった後、自分のなした害悪を悔い改め、身に加えられた害悪を許した後、今やようやくにしてそのむくいを得ている時に、すべてが終わっている時に、目的に到達している時に、欲するところのものを得ている時に、しかもそれは至当であり正しきものであり、自らその価を払って得たものである時に当たって、すべては去り、すべては消えうせんとするのか。コゼットを失い、自分の生命と喜びと魂とを失わんとするのか。そしてそれもただひとりのばか者がリュクサンブールの園にきて徘徊《はいかい》し出したがためである!」
 かくて彼の瞳《ひとみ》は、悲しいまた尋常ならぬ輝きに満ちてきた。それはもはや他の男を見つむるひとりの男ではなく、敵を見つむるひとりの仇《あだ》ではなく、盗賊を見つむる一匹の番犬であった。
 それより先のことは読者の知るところである。マリユスはなお続けて無鉄砲であった。ある日彼はウエスト街までコゼットの跡をつけた。またある日は門番に尋ねてみた。門番の方でもまた口を開いてジャン・ヴァルジャンに言った。「旦那様《だんなさま》、ひとりの変な若者があなたのことを尋ねていましたが、あれはいったい何者でしょう!」その翌日ジャン・ヴァルジャンはマリユスに一瞥《いちべつ》を与えたが、マリユスもついにそれに気づいた。一週間の後にジャン・ヴァルジャンはそこを去った。リュクサンブールへもウエスト街へも再び足をふみ入れまいと自ら誓った。彼はプリューメ街へ戻った。
 コゼットは不平を言わなかった、何事も言わなかった、疑問を発しもしなかった、理由を知ろうともしなかった。彼女はもはや、意中がさとられはしないかを恐れ秘密がもれはしないかを恐れるほどになっていた。ジャン・ヴァルジャンはその種の不幸には少しも経験を持たなかった。それこそ世に可憐《かれん》なる唯一の不幸であり、しかも彼が知らない唯一の不幸であった。その結果彼はコゼットの沈黙の重大な意味を少しもさとらなかった。ただ彼はコゼットが寂しげな様子になったのを認めて、自分も陰鬱《いんうつ》になった。両者いずれにも無経験な暗闘があった。
 一度彼はためしてみた。彼はコゼットに尋ねた。
「リュクサンブールへ行ってみようか?」
 一条の光がコゼットの青白い顔を輝かした。
「ええ。」と彼女は言った。
 ふたりはそこへ行った。三月《みつき》も経た後であった。マリユスはもうそこへ行ってはいなかった。マリユスはそこにいなかった。
 翌日ジャン・ヴァルジャンはコゼットに尋ねた。
「リュクサンブールへ行ってみようか?」
 彼女は悲しげ
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