コゼットの室《へや》の中においてだった。コゼットは修道院の寄宿生徒だった時の古衣がかかってる衣服部屋の衣桁《いこう》の方へふり向いた。
「あの着物!」と彼女は言った、「お父様、あれをどうせよとおっしゃるの。まあ、あんないやなものはもう私着ませんわ。あんなものを頭にかぶったら山犬のように見えますもの。」
 ジャン・ヴァルジャンは深いため息をついた。
 コゼットは以前はいつも家にいたがって、「お父様、私はあなたといっしょに家にいる方がおもしろいんですもの、」と言っていたが、今では絶えず外に出たがるようになったのを、彼が気づいたのはこの時からであった。実際、人に見せるのでなければ、美しい顔を持ちきれいな着物を着ていたとて、それが何の役に立とう。
 コゼットがもう後ろの中庭を前ほど好かなくなったことをも、彼はまた気づいた。彼女は今では、好んで表庭の方へ行き、鉄門の前をもいやがらずに歩き回っていた。人に見られることを好まないジャン・ヴァルジャンは、決して表庭に足をふみ入れなかった。彼は犬のように後ろの中庭にばかりいた。
 コゼットは自分の美しいことを知って、それを知らない時のような優美さを失った。自分の美を知らない優美さはまた特別なものである。なぜなら、無邪気のために光を添えらるる美は言葉にも尽し難いものであり、自ら知らずして天国の鍵《かぎ》を手にしながら歩を運ぶまばゆきばかりの無心ほど、世に景慕すべきものはない。しかし彼女は、素朴な優美さにおいて失ったところのものを、思いありげな本気な魅力において取り返した。彼女の一身は、青春と無垢《むく》と美との喜びに浸されながら、輝かしい憂愁の様を現わしていた。
 マリユスが六カ月の間を置いて再びリュクサンブールの園で彼女を見いだしたのは、ちょうどそういう時期においてであった。

     六 戦のはじまり

 世間から離れていたコゼットは、やはり世間から離れていたマリユスと同じく、今はただ点火されるのを待つばかりになっていた。運命はそのひそかな一徹な忍耐をもって、両者を徐々に近づけていた。しかもこのふたりは、情熱のわき立つ電気をになって思い焦がれていた。この二つの魂は、雷を乗せた二つの雲のように恋を乗せ、電光の一閃《いっせん》に雲がとけ合うように、ただ一瞥《いちべつ》のうちに互いに接し互いに混和すべきものであった。
 ただの一瞥ということは、恋の物語においてあまりに濫用《らんよう》されたため、ついに人に信ぜられなくなった。互いに視線を交じえたために恋に陥ったということを、今日ではほとんど口にする者もない。しかし人が恋に陥るのは、皆それによってであり、またそれによってのみである。その他はやはりその他に過ぎなくて、あとより来るものである。一瞥の火花をかわしながら二つの魂が互いに与え合うその大衝動こそ、最も現実のものである。
 コゼットが自ら知らずしてマリユスの心を乱す一瞥を投げた時に、自分の方でもコゼットの心を乱す一瞥を投げたとはマリユスも自ら知らなかった。
 彼はコゼットに、自分が受けたと同じ災いと幸福とを与えた。
 既に長い以前から彼女は、若い娘がよくするように、よそをながめながらそれとなく彼の方を見、彼の方をうかがっていた。マリユスはまだコゼットを醜いと思っていたが、コゼットの方では既にマリユスを美しいと思っていた。しかし彼が彼女に少しも注意を払わなかったと同様、彼女の方でもその青年に対してどうという考えは持たなかった。
 それでも彼女はひそかに思わざるを得なかった、彼が美しい髪と美しい目と美しい歯とを持ってること、その友人らと話すのを聞けば彼の声にはいかにも美しい響きがあること、その歩き方はまあ言わば不器用ではあるがまた独特の優美さを持ってること、どこから見ても愚物ではなさそうであること、その人品は気高くやさしく素朴で昂然《こうぜん》としていること、貧乏な様子ではあるがりっぱな性質らしいことなど。
 ついにふたりの視線が出会って、人知れぬ名状し難い最初のことを突然目つきで伝え合った日、コゼットはそれがどういう意味か初めはわからなかった。彼女はジャン・ヴァルジャンがいつものとおり六週間を過ごしにきてるウエスト街の家へ、思いに沈みながら帰っていった。翌朝目をさますと、彼女はまずその知らぬ青年のことを頭に浮かべた。彼は長い間冷淡で氷のようであったが、今は彼女に注意を払ってるらしかった、そしてその注意が快いものだとはどうしても彼女には思えなかった。彼女はその美しい傲慢《ごうまん》な青年に対してむしろ憤激をさえいだいた。戦いの下心が彼女のうちに動いた。これから意趣返しをしてやることができそうな気がして、まだごく子供らしい喜びを感じた。
 自分がきれいであることを知っていたので彼女は、漠然《ばくぜん》と
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