ごとくあまりに唐突急激な蜃気楼《しんきろう》がそこに作られるであろうから。娘の魂は現実のきびしい直射の光よりもむしろその反映によって、静かに注意深く照らさなければならない。有用なそれとなき謹厳な微光こそ、子供心の恐怖を散らし堕落を防ぐものである。いかにしてまた何によってその微光を作るべきかを知っているものは、ただ母の本能あるのみである、処女の記憶と婦人としての経験とを合わせ有する驚くべき直覚あるのみである。この本能の代わりをなし得るものは何もない。年若い娘の魂を教養するには、世のすべての修道女らを集めてもひとりの母親には及ばない。
コゼットは母を持たなかった。彼女はただ多くの複数の母([#ここから割り注]教母ら[#ここで割り注終わり])を有するのみだった。
ジャン・ヴァルジャンに至っては、あらゆる柔和と配慮とを持ってはいたが、要するにまったく何事をも知らない一老人に過ぎなかった。
しかるにかかる教育の仕事、女子を世に出す準備をするこの重大な仕事には、無邪気と呼ばるる大なる無知と戦わんためにいかに多くの知識が必要であることか!
修道院ほど若き娘を熱情に仕立てるものはない。修道院は考えを不可知なるものへ向けさせる。おのれ自身の上にかがんでいる心は、外に流れ出すことを得ないでおのれのうちに溝《みぞ》を掘り、外にひろがることを得ないでおのれのうちを深く掘る。かくして生ずるものは、幻、仮定、推測、空想のローマンス、楽しい冒険、奇怪な想像、心の奥の暗闇《くらやみ》のうちに建てられる殿堂、鉄の扉《とびら》が開けてはいれるようになると直ちに熱情が宿る暗い秘密の住居。修道院は一つの抑圧であって、人の心に打ちかたんためには一生連続していなければならない。
修道院を出たコゼットにとっては、プリューメ街の家ほど楽しいまた危険なものはなかった。寂寥《せきりょう》は続きながら加うるに自由が始ったのである。庭は閉ざされていたが、自然は軽快で豊かで放逸で香気を発していた。修道院と同じ夢想にふけりながら、しかも若い男子の姿がのぞき見られた。同じく鉄門がついてはいたが、しかしそれは街路に向かって開いていた。
けれども、なお繰り返して言うが、そこにきた時彼女はまだ子供にすぎなかった。ジャン・ヴァルジャンはその荒れはてた庭を彼女の手にゆだねた。「好きなようにするがいい」と彼は言った。それはコゼットを喜ばした。彼女はそこで、叢《くさむら》をかき回し石を起こし「獣」をさがし、夢想しながら遊び回った。足下に草の間に見いださるる昆虫《こんちゅう》を見てはその庭を愛し、頭の上に木の枝の間に見らるる星をながめてその庭を愛した。
それからまた彼女は、自分の父すなわちジャン・ヴァルジャンを心から愛し、清い孝心をもって愛し、ついにその老人を最も好きな喜ばしい友としていた。読者の記憶するとおりマドレーヌ氏は多く書物を読んでいたが、ジャン・ヴァルジャンとなってもその習慣をつづけていた。それで彼は話がよくできるようになった。彼は自ら進んで啓発した謙譲な真実な知力の人知れぬ富と雄弁とを持っていた。彼にはちょうどその温良さを調味するだけの森厳さが残っていた。彼はきびしい精神であり穏和な心であった。リュクサンブールの園で対話中、彼は自ら読んだものや苦しんだもののうちから知識をくんできて、あらゆることに長い説明を与えてやった。そして彼の話を聞きながら、コゼットの目はぼんやりとあたりをさ迷っていた。
自然のままの庭でコゼットの目には十分であったように、その単純な老人で彼女の頭には十分だった。蝶《ちょう》のあとを追い回して満足した時、彼女は息を切らしながら彼のそばにやってきて言った。「ああほんとによく駆けたこと!」すると彼は彼女の額に脣《くちびる》をつけてやった。
コゼットはその老人を敬愛していた。そしていつもその跡を追った。ジャン・ヴァルジャンがいさえすればどこでも楽しかった。ジャン・ヴァルジャンは母屋《おもや》にも表庭にもいなかったので、彼女には、花の咲き乱れた園よりも石の舗《し》いてある後ろの中庭の方が好ましく、綴紐《とじひも》のついた肱掛《ひじか》け椅子《いす》が並び帷《とばり》がかかってる大きな客間よりも藁椅子《わらいす》をそなえた小さな小屋の方が好ましかった。ジャン・ヴァルジャンは時とすると、うるさくつきまとわれる幸福にほほえみながら彼女に言うこともあった。「まあ自分の家《うち》の方へおいで。そして私を少しひとりでいさしておくれ。」
娘から父親に向けて言う時にはいかにも優雅に見えるかわいいやさしい小言《こごと》を、彼女はよく彼に言った。
「お父様、私あなたのお部屋《へや》では大変寒うございますわ。なぜここに絨毯《じゅうたん》を敷いたりストーブを据えたりなさらないの。」
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