こに住んでるか教えて下さいね。」
 マリユスは答えなかった。
「まあ、」彼女は続けて言った、「あなたのシャツには穴が一つあいているわ。あたしが縫ってあげてよ。」
 彼女はある表情をしたが、それはしだいに曇ってきた。「あなたはあたしに会ったのがいやな様子ね。」
 マリユスは黙っていた。彼女もちょっと口をつぐんだが、それから叫んだ。
「でもあたしがそのつもりになりゃあ、あなたをうれしがらせることだってできるわ。」
「なに?」とマリユスは尋ねた。「あなたは何のことを言ってるんです。」
「まあ、前にはお前って言ってたじゃないの。」と彼女は言った。
「よろしい、お前は何のことを言ってるんだい。」
 彼女は脣《くちびる》をかんだ。何か心のうちで思い惑ってることがあるらしく、躊躇《ちゅうちょ》してるようだった。しかしついに決心したように見えた。
「なに同じことだ……。あなたは悲しそうな様子をしてるわね。あたしあなたのうれしそうな様子が見たいのよ。笑うっていうことだけでいいから約束して下さいね。あなたの笑うところが見たいのよ、そして、ああありがたいっていうのを聞きたいのよ。ねえ、マリユスさん、あなたあたしに約束したでしょう、何でも望み通りなものをやるって……。」
「ああ。だから言ってごらん。」
 彼女はマリユスの目の中をのぞき込んで、そうして言った。
「居所がわかったのよ。」
 マリユスは顔の色を変えた。身体中の血が心臓に集まってしまった。
「何の居所が?」
「あなたがあたしに頼んだ居所よ。」
 そして彼女は無理に元気を出したかのようなふうでつけ加えた。
「あの……わかってるでしょう。」
「ああ。」とマリユスは口ごもった。
「あのお嬢さんのよ。」
 そのお嬢さんという言葉を発して彼女は、深くため息をついた。
 マリユスは腰掛けていた欄干から飛び上がって、夢中になって彼女の手を執った。
「ああそうか。僕を連れてってくれ。知らしてくれ。何でも望みなものを言ってくれ。それはどこだよ?」
「あたしといっしょにいらっしゃい。」と彼女は答えた。「町も番地もよくは知らないのよ。ここのちょうど向こう側よ。でも家はよく知ってるから、連れてってあげるわ。」
 彼女は手を引っ込めた。そして次の言葉ははたで見る者の心を刺し通すだろうと思われるほどの調子で言ったが、喜びに夢中になってるマリユスには少しも感じなかった。
「おお、あなたほんとにうれしそうね!」
 一抹《いちまつ》の影がマリユスの額にさした。彼はエポニーヌの腕をとらえた。
「一事《ひとこと》僕に誓ってくれ。」
「誓うって?」と彼女は言った、「どうしてなの。まああなたはあたしに誓わせようっていうの。」
 そして彼女は笑った。
「お前のお父さんのことだ。僕に約束してくれ、エポニーヌ。その居所をお父さんに知らせはしないと誓ってくれ。」
 彼女はびっくりしたような様子で彼の方へ向き直った。
「エポニーヌって! どうしてあなたはあたしがエポニーヌという名だことを知ってるの。」
「今言ったことを僕に約束してくれ。」
 しかし彼女はそれも耳にしないかのようだった。
「うれしいわ。あなたあたしをエポエーヌって呼んで下すったのね。」
 マリユスは彼女の両腕を一度にとらえた。
「だからどうか僕に返事をしてくれ。よく注意して、いいかね、お前が知ってるその住所をお父さんに言いはしないと僕に誓ってくれ!」
「お父さんですって、」と彼女は言った、「ええ大丈夫よ、お父さんのことなら。安心していいわよ。今監獄にはいってるの。それにまた、何であたしがお父さんのことなんか気にするもんですか。」
「でもお前は僕にそれを約束しないのか。」とマリユスは叫んだ。
「まあ放して下さいよ。」と彼女は笑い出しながら言った。「そう無茶苦茶に人を揺すってさ。えゝえゝ、約束してよ、それをあなたに誓ってよ。そんなこと訳はないわ。その住所をお父さんに言いはしません。ねえ、これでいいんでしょう、こうなんでしょう。」
「そしてまただれにも?」とマリユスは言った。
「ええだれにも。」
「ではこれから、」とマリユスは言った、「僕を連れてってくれ。」
「すぐに?」
「すぐにだよ。」
「ではいらっしゃい。おゝほんとにうれしそうね。」と彼女は言った。
 四、五歩行くと、彼女は立ち止まった。
「あまりすぐそばにあなたはついて来るんだもの、マリユスさん。あたしを少し先に行かして、人に覚《さと》られないようについていらっしゃい。あなたのようなりっぱな若い男があたしのような女といっしょに歩いてるのを見られると、よくないわよ。」
 この小娘がそんなふうに発した女という言葉のうちにこもってるすべては、いかなる言語をもってしても言いつくすことはできないだろう。
 彼女は十歩ばかりも歩いて、また
前へ 次へ
全181ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング