深き者らは、徐々に読み解いてその正文をもたらすが、その時はもう疾《と》くに仕事はなされてしまっている。公衆の巷《ちまた》には既に多くの翻訳ができている。その各翻訳から一党派が生まれ、各誤訳から一徒党が生まれている。そして各党派はおのれのみが唯一の正文を有していると信じ、各徒党はおのれのみが光明を有していると信じている。
しばしば権力それ自身も一つの徒党にすぎないことが多い。
革命のうちには流れにさかのぼって泳ぐ者がいる。それは旧党の者らである。
神の恵みによって世襲権に執着してる旧党の者らに言わすれば、革命は背反の権利から生ずるものであるから、人はまた革命に背反するの権利をも持っていることになる。しかしそれは誤りである。なぜなれば革命のうちにあっては、背反する者は人民ではなくして王だからである。革命はまさしく背反の反対である。あらゆる革命は皆順当なる遂行であるゆえに、そのうちには正法が含まっている。その正法は、時として似而非《えせ》革命家らによって汚名を負わせらるることもあるが、しかしたとい汚されようとも存続するものであり、たとい血にまみれようとも生きながらえるものである。革命は一事変より発生するものではなく、必然より生ずるものである。革命は虚を実に還《かえ》すことである。革命は存在せざるべからざるがゆえに存在する。
古い正統派ら([#ここから割り注]訳者注 ブールボン本家を奉ずるもの[#ここで割り注終わり])は、誤れる理論より生ずるあらゆる暴虐をもって一八三〇年の革命に襲いかかった。錯誤は秀でたる弾丸である。彼らはこの革命を打つに、その傷つけ得べき所を、その鎧《よろい》のない所を、その論理の欠けてる所を、賢くも選んだ。彼らは王位の点をもってこの革命を攻撃した。彼らは叫んだ。「革命よ、この王は何ゆえのものぞや?」それらの徒党は正しき狙《ねら》いを有する盲人である。
その叫びを、共和党らもまた同じく発する。しかし彼らから来ればそれも合理的である。正統派のうちにおいて盲目となるところのものは、民主派のうちにおいては明知となる。一八三〇年は民衆に破産をさした。憤怒した民主政はそれを非難したのである。
過去から来る攻撃と未来から来る攻撃との間にあって、七月の建物は奮闘した。一方では数世紀来の王政と争い、他方では永遠の正義と争う一瞬間を、それは現わしたものであった
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