ニ隠密なしかし整然たる平衡を保ち、底のあらゆる動揺はまた表面の波紋を生ぜしむる。真の歴史はすべてに関係を有し、真の歴史家はすべてに交渉を有する。
人間はただ一つの中心を持つ円ではない。二つの中心を持つ楕円《だえん》である。事実は一つの中心であり、思想はも一つの中心である。
隠語は、何かの悪事をなす時に言語が仮装するその衣服部屋に外ならない。そこで言語は、仮面の言葉とぼろの比喩《ひゆ》とを身にまとう。
かくしてこの言語は恐ろしい姿になる。
もはやその本来の顔はほとんど認められない。これは果たしてフランス語であろうか、人間の大国語であろうか? 既に舞台に上がるばかりになっており、罪悪に台辞《せりふ》を与えるばかりになっている。悪の芝居のあらゆる人物にふさわしいものとなっている。もはやまっすぐに歩かないで跛《びっこ》を引いている。クール・デ・ミラクル([#ここから割り注]訳者注 昔乞食や浮浪人らの集まっていたパリーの一部[#ここで割り注終わり])の撞木杖《しゅもくづえ》にすがって、棍棒《こんぼう》に変わり得る撞木杖にすがって歩いている。自ら無宿者《やどなし》と称している。あらゆる妖怪《ようかい》はその衣裳方となって彼を扮装《ふんそう》してやったのである。はいつつ立っている。爬虫類《はちゅうるい》の二重の歩き方である。かくて彼はあらゆる役目に適するようになる。詐欺者からは曖昧《あいまい》な色になされ、毒殺者からは緑青の色になされ、放火犯人からは煤《すす》の色になされ、殺害者からはまっかな色をもらっている。
正直な人々の方に身を置いて、社会の戸口に耳を澄ますと、外にいる者らの対話を盗み聞くことができる。問いと答えとははっきり聞き分けられる。そしてその内容はわからないで、ただ人間の音調らしいものが、否むしろ言葉というよりも吠《ほ》え声に近いものが、気味悪く鳴り響いているかと思われる。それは隠語である。その単語は形がゆがんでいて、いい知れぬ奇怪な獣性をそなえている。あたかも水蛇《みずへび》の話を聞くがようである。
それは暗黒中にある不可知なるものである。その謎《なぞ》によって闇《やみ》を一層深くしながら、鋭くまた低く響いている。不幸の中はまっくらであり、罪悪の中は一層まっくらである。その二つの闇が結合して隠語を作る。大気の中も闇であり、行為の中も闇であり、声のうちも闇
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