のはなに?」
「猫よ。」
「猫を食ったのはなに?」
「鼠《ねずみ》だ。」
「ちゅうちゅが?」
「うむ、鼠だ。」
 子供は猫を食うというそのちゅうちゅにびっくりして、なお尋ね出した。
「おじさん、私たちまで食べますか、そのちゅうちゅは。」
「あたりまえさ。」とガヴローシュは言った。
 子供の恐怖は極度になった。しかしガヴローシュは言い添えた。
「こわがるこたあねえ。はいれやしないんだ。その上|俺《おれ》がついてる。さあ俺の手を握っておれ。そして黙ってねくたばるんだ。」
 ガヴローシュはすぐに、兄の上から手を伸ばして子供の手を握ってやった。子供はその手をしっかと抱きしめてようやく安心した。勇気と力とはそういうふうに不思議に伝わってゆくものである。あたりはまたしいんとなった。人の声に驚いて鼠《ねずみ》も遠くに逃げていた。しばらくたって、鼠はまた戻ってきて騒ぎ出したが、三人の子供はもう眠っていて、何にも聞かなかった。
 夜は更《ふ》けていった。広いバスティーユの広場は闇《やみ》におおわれていた。雨を交じえた冬の風は息をついては吹き荒《すさ》んでいた。見回りの警官らは、戸口や路地や垣根や薄暗いすみずみなどを窺って、夜間にのさばり歩いてる奴《やつ》らをさがし回っていたが、象の前は黙って通りすぎて行った。その大怪物はじっと直立して、闇の中に目を見開き、自分の善行を満足げに考えふけってるらしい様子をして、眠ってるあわれな三人の子供を荒天と社会とから庇護《ひご》していた。
 さてこれから起こることを了解せんがためには、次のことを記憶しておく必要がある。すなわち、当時バスティーユの風紀衛兵の宿舎は広場の向こうの端にあって、象の近くで起こることは、その歩哨《ほしょう》に見えも聞こえもしなかったのである。
 夜が明けかかるすぐ前の頃に、ひとりの男が、サン・タントアーヌ街の方から駆けてき、広場を横ぎり、七月記念塔の大きな板囲いをまわり、そのすき間から中にはいり込み、象の腹の下までやってきた。もし何かの灯火に照らされたら、そのずぶぬれになってる様子から、その男は一晩雨の中で過ごしたものであることが察せられたろう。象の下まで来ると、男は変な叫び声を出した。それはとうてい人間の言葉ではなく、ただインコだけがまね得るものだった。男は二度その叫び声をくり返した。次のようにでも書いたらおおよその声が察せ
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