政そのものに帰すべきものがあり、王自身に帰すべきものがある。その三つの桁《けた》は各異なった総額を与うるものである。民主権を没収したこと、進歩をして第二義的たらしめたこと、巷《ちまた》の抗議を暴力で抑圧したこと、反乱に対して武力で干渉したこと、騒擾《そうじょう》を武器で鎮圧したこと、トランスノナン街の事件、軍法会議、現実の一国を法律の一国たらしめたこと、三十万の特権者をもって立てられた半端《はんぱ》な政府、それらは王位がなした仕事である。ベルギーの提議を拒絶したこと、アルゼリーをあまりに酷薄に征略し、イギリス人がインドに対して行なったように、文明的手段よりもむしろ多くの野蛮的手段を用いたこと、アブデルカデルに信用をなくしたこと、ブライの事件、ドイッツ町を買収したこと、プリチャールを弁償したこと、それらは国政がなした仕事である。国民的というよりもなおいっそう家族的な政治をしたこと、それは王がなした仕事である。
 かく差し引をなす時には、王の負うところは明らかに減少する。
 彼の大なる過ちは、フランスの名において謙譲だったことである。
 その過ちはどこから来るか?
 それを少しく述べてみよう。
 ルイ・フィリップはあまりに家父的な王であった。やがて一王朝たらしめんと静かに孵化《ふか》されつつあったその一家は、あらゆるものを恐れ、静安を乱されることを欲しなかった。そこから過度の臆病《おくびょう》さが生まれたのであって民事的伝統としては七月十四日(一七八九年)を有し軍事的伝統としてはアウステルリッツを有する人民にとっては、それはかえってわずらいとなるものだった。
 その上、まず最初に尽すべき公の義務を除いて考うるならば、ルイ・フィリップが自分の家族に対して持っていた深い温情は、家族の方でもまたそれに価するだけのものがあった。その一群の人々はきわめてすぐれた者ばかりだった。徳と才能とが兼ねそなえられていた。ルイ・フィリップの娘のひとりであるマリー・ドルレアンは、あたかもシャール・ドルレアンが一家の名前を詩人のうちに加えさしたと同じように、一家の名前を美術家の中に加えさした。彼女は自分の魂を一つの大理石像に作り上げ、それをジャンヌ・ダルクと名づけた。またルイ・フィリップの息子のうちのふたりは、メッテルニッヒをして次の平民的賛辞を発せさした。「彼らは[#「彼らは」に傍点]、類《た
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