覚だったろう。その音楽を聞くと、異様な深淵《しんえん》が心の前にうち開け、怪しい森が目の前にうち震い、おぼろに認めらるる猟人らの不安な足の下に鳴る枯れ枝の音が、その奥に聞こえてくるのである。
コゼットはもうそのことを気にしなかった。
その上彼女は天性|臆病《おくびょう》ではなかった。その血管のうちには、跣足《はだし》で走り回る放浪者と冒険者との血潮があった。読者の記憶するとおり、彼女は鳩《はと》ではなくてむしろ雲雀《ひばり》であった。彼女の心の底には粗野と豪胆とがあった。
翌日、少し早く、夜になりかける頃、彼女は庭を歩いてみた。そしてとりとめもないことに思いふけっていたが、その間にも時々、すぐ近くの木陰の暗闇《くらやみ》の中をだれかが歩いてるような、前日と同じ音が聞こえるようだった。しかし彼女は、木の枝のすれ合う音は草の中を歩く足音によく似てるものであると考えて、別に注意も払わなかった。その上何も見えなかった。
彼女は「藪《やぶ》」の中から出てきた。そして家の踏段の所まで行くには、小さな青々とした芝地を通らなければならなかった。ちょうど後ろにのぼっていた月は、彼女が木の茂みから出てきた時、すぐ前にその影を長く芝地の上に投じた。
コゼットは驚いて足を止めた。
彼女の影のそばに、月はも一つ他の影を芝地の上にはっきり投げていた。妙に気味悪い恐ろしい影で、丸い帽子をかぶっていた。
彼女の後ろ数歩の所に茂みの端に立ってる一人の男の影らしかった。
彼女はしばらく、口をきくこともできず、叫ぶことも、人を呼ぶことも、身動きすることも、また振り返ることもできなかった。
ついに彼女は勇気を振るい起こして、決然と後ろをふりむいた。
そこにはだれもいなかった。
彼女は地面を見た。影は消えうせていた。
彼女は茂みの中に戻ってゆき、大胆にもすみずみをうかがい、鉄門の所までも行ったが、何も見つからなかった。
彼女は実際ぞっと寒さを感じた。これもまた幻覚だったろうか。しかも、二日続いて! 一度ならまだしも、二度もあろうとは! ことに不安なのは、その影が確かに幽霊ではなかったことである。幽霊なら丸い帽子をかぶってるはずはない。
その翌日ジャン・ヴァルジャンが帰ってきた。コゼットは彼に自分が聞いたと思い見たと思ったもののことを話した。父はきっと自分を安心させてくれ、「お前は
前へ
次へ
全361ページ中114ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング