、首に鉄の輪をはめられるようになる。もし女に横目でもつかえば、棒でなぐられる。そしてそこにはいる時は二十歳くらいでも、出る時には五十歳にもなる。はいる時には年が若く、顔色は美しく、いきいきとして、目は輝き、歯はまっ白で、若々しいりっぱな髪の毛をしていても、出て来る時には、老衰し、腰は曲がり、皺《しわ》はより、歯はぬけ、恐ろしい姿になって、髪の毛もまっ白になっている。ああかわいそうにお前は誤った道を取っている。何にもしないということが、お前を悪い方へ導いたのだ。仕事のうちでも一番つらいことは、盗みの仕事である。私《わし》を信じて、なまけようなどという困難な仕事を始めなさんな。悪者になるのは、容易なことではない。正直な人間になる方がよほど楽だ。さあ行って、私の言ったことをよく考えてみなさい。ところで、何か用だったか。財布《さいふ》かね。それならここにある。」
 そして老人はモンパルナスから手を放し、彼の手に財布《さいふ》を握らしてやった。モンパルナスはちょっとその重さを手ではかってみて、それから自分で盗みでもしたように機械的な注意を配って、上衣の後ろのポケットにそれを静かにすべり込ました。
 以上のことを語り終え、以上のことをなした後、老人は彼に背中を向け、平気で散歩を続けた。
「まぬけめ!」とモンパルナスはつぶやいた。
 そもそもこの老人は何人《なんぴと》であったか。読者は既に察知したに違いない。
 モンパルナスはそれでもやはり呆然《ぼうぜん》として、老人が闇《やみ》の中に没し去るのをながめた。そういうふうに後《あと》見送って考え込んだことは、彼のためにごくいけなかった。
 老人が遠ざかるとともに、ガヴローシュが近寄ってきたのである。
 ガヴローシュはじろりと横目で、マブーフ老人がやはりまだベンチにすわってるのを見て取った。おそらく眠っていたのであろう。それで浮浪少年は藪《やぶ》の中から出てきて、じっと立ってるモンパルナスの後ろに、影の中をはい寄った。そういうふうにして彼は、モンパルナスから見られもせず音も聞かれないで、そのそばまでやってゆき、上等な黒ラシャの上衣の後ろのポケットにそっと手を差し入れ、財布をつかみ、手を引き出し、そしてまたはいながら、蛇《へび》が逃げるように闇《やみ》の中に姿を隠してしまった。モンパルナスは自分の方を用心するなどという理由がなかった上に
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