少年らは、それを見ていっそうはやし立てた。
 ジャン・ヴァルジャンの目は恐ろしいありさまに変わっていた。それはもはや眸《ひとみ》とさえも言えなかった。ある種の不幸な者に見らるるとおり、普通の目つきと違った奥深いガラス玉で、もはや現実に対する感覚を失い、ただ恐怖と破滅との反映のみが燃え立ってるかと思われるものだった。彼は一つの光景をながめてるのではなく、一つの幻影に見入ってるのだった。彼は立ち上がり、逃げ出し、身を脱しようとした。しかし足はすくんで動かなかった。時とすると、眼前に見える事物はかえってその人をとらえて動かさないことがある。ジャン・ヴァルジャンはそこに釘《くぎ》付けにされ、化石したようになり、惘然《ぼうぜん》[#ルビの「ぼうぜん」は底本では「ばうぜん」]として、名状し難い一種の雑然たる苦悶《くもん》を通して、自ら尋ねた、この死のごとき迫害はいったい何を意味するものであるかと、そして自分を追求してきたこの悪鬼の殿堂はどこから出てきたのであるかと。突然彼は額に手をあてた。にわかに記憶がよみがえってきた者のする身振りである。彼は思い出した、それは実際囚人らが運ばれるのであること、この回り道はフォンテーヌブローの大道ではいつ国王に行き会うかわからないのを避けるために昔から取られてる慣例であること、三十五年前には自分もまたこの市門を通って行ったのであることを。
 コゼットの方も、違った意味からではあったが、彼に劣らず恐怖の念をいだいた。彼女には訳がわからなかった。彼女は息さえできないほどになった。眼前に見る光景は世にあり得べからざることのように思えた。がついに彼女は叫んだ。
「お父様、あの車の中にいるのは何でしょう?」
 ジャン・ヴァルジャンは答えた。
「囚人だ。」
「どこへ行くんでしょう?」
「徒刑場へ。」
 その時、多くの者が、いっせいに打ちおろす殴打はその絶頂に達し、サーベルの平打さえも加えられて、あたかも鞭《むち》と棒との暴風雨となった。囚徒らは背をかがめ、呵責《かしゃく》の下に恐るべき服従を強いられ、鎖につながれた狼《おおかみ》のような目つきをして皆黙ってしまった。コゼットは全身を震わした、そして言った。
「お父様、あれでも人間でしょうか?」
「あゝ、時によっては。」と不幸な老人は答えた。
 それは実際一連の刑鎖で、夜明け前にビセートルを発して、当時国王が
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