女は、今感じていることに何という名前を与えていいかわからなかった。しかし病名を自ら知らなければそれだけ病気が軽いといういわれはない。
 彼女は恋ということを知らずに恋しただけになおいっそうの情熱をもって恋した。それはいいものか悪いものか、有益なものか危険なものか、必要なものか致命的なものか、永遠なものか一時的なものか、許されたものか禁ぜられたものか、それを少しも知らなかった。そしてただ恋した。もしこう言われたら彼女は非常に驚いたであろう。「お前は夜眠れないって、それはよろしくない。お前は物が食べられないって、それはごく悪い。お前は胸が苦しかったり動悸《どうき》がしたりするって、そんなことがあってはいけない。黒い服を着たある人が緑の道の一端に現われると、お前は赤くなったり青くなったりするって、それはけしからんことだ。」彼女はそのゆえんがわからないでこう答えたであろう。「自分でどうにもできませんしまた何にもわかりませんのに、どうして私に悪いところがあるのでしょう?」
 彼女に現われてきた恋は、ちょうど彼女の心の状態に最も適したものだった。それは一種の遠方からの景慕であり、ひそかな沈思であり、知らぬ人に対する跪拝《きはい》であった。青春の前に現われた青春の幻であり、夢の状態のままでローマンスとなった夜の夢であり、長く望んでいた幻影がついに事実となって肉をそなえながら、しかもまだ名もなく不正もなく汚点もなく要求もなく欠陥もないままの状態にあるものだった。一言にして言えば、理想のうちに止まってる遠い恋人であり、一つの形体をそなえた空想であった。もっと具体的なもっと近接した邂逅《かいこう》であったなら、修道院の内気な靄《もや》の中にまだ半ば浸っていたコゼットを、初めのうち脅かしたことであろう。彼女は子供の恐怖と修道女の恐怖とをすべて合わせ持っていた。五年の間に彼女にしみ込んだ修道院的精神は、なお静かに彼女の一身から発散していて、あたりのものを震えさしていた。そういう状態にある彼女に必要なものは、ひとりの恋人ではなく、ひとりの愛人でもなく、一つの幻であった。彼女はマリユスを、光り輝いた非現実的な心ひかるるある物として景慕し始めたのである。
 極端な無邪気は極端な嬌態《きょうたい》に近い。彼女は彼にごく素直にほほえんでみせた。
 彼女は毎日散歩の時間を待ち焦がれ、散歩に行くとマリユ
前へ 次へ
全361ページ中84ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング