コゼットの室《へや》の中においてだった。コゼットは修道院の寄宿生徒だった時の古衣がかかってる衣服部屋の衣桁《いこう》の方へふり向いた。
「あの着物!」と彼女は言った、「お父様、あれをどうせよとおっしゃるの。まあ、あんないやなものはもう私着ませんわ。あんなものを頭にかぶったら山犬のように見えますもの。」
 ジャン・ヴァルジャンは深いため息をついた。
 コゼットは以前はいつも家にいたがって、「お父様、私はあなたといっしょに家にいる方がおもしろいんですもの、」と言っていたが、今では絶えず外に出たがるようになったのを、彼が気づいたのはこの時からであった。実際、人に見せるのでなければ、美しい顔を持ちきれいな着物を着ていたとて、それが何の役に立とう。
 コゼットがもう後ろの中庭を前ほど好かなくなったことをも、彼はまた気づいた。彼女は今では、好んで表庭の方へ行き、鉄門の前をもいやがらずに歩き回っていた。人に見られることを好まないジャン・ヴァルジャンは、決して表庭に足をふみ入れなかった。彼は犬のように後ろの中庭にばかりいた。
 コゼットは自分の美しいことを知って、それを知らない時のような優美さを失った。自分の美を知らない優美さはまた特別なものである。なぜなら、無邪気のために光を添えらるる美は言葉にも尽し難いものであり、自ら知らずして天国の鍵《かぎ》を手にしながら歩を運ぶまばゆきばかりの無心ほど、世に景慕すべきものはない。しかし彼女は、素朴な優美さにおいて失ったところのものを、思いありげな本気な魅力において取り返した。彼女の一身は、青春と無垢《むく》と美との喜びに浸されながら、輝かしい憂愁の様を現わしていた。
 マリユスが六カ月の間を置いて再びリュクサンブールの園で彼女を見いだしたのは、ちょうどそういう時期においてであった。

     六 戦のはじまり

 世間から離れていたコゼットは、やはり世間から離れていたマリユスと同じく、今はただ点火されるのを待つばかりになっていた。運命はそのひそかな一徹な忍耐をもって、両者を徐々に近づけていた。しかもこのふたりは、情熱のわき立つ電気をになって思い焦がれていた。この二つの魂は、雷を乗せた二つの雲のように恋を乗せ、電光の一閃《いっせん》に雲がとけ合うように、ただ一瞥《いちべつ》のうちに互いに接し互いに混和すべきものであった。
 ただの一瞥という
前へ 次へ
全361ページ中81ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング