いた。その問いを繰り返すと、彼はただ笑顔で答えた。かつてしつこく尋ねたこともあったが、その時彼の微笑は涙に変わってしまった。
 ジャン・ヴァルジャンのそういう沈黙は、ファンティーヌを闇《やみ》でおおい隠していた。
 それは用心からであったろうか、敬意からであったろうか、あるいはまた自分以外の者の記憶にその名前をゆだねることを恐れたからであったろうか?
 コゼットが小さかった間は、ジャン・ヴァルジャンは好んで彼女に母のことを語ってきかした。しかしコゼットが相当な娘になると、彼にはそれができなくなった。彼にはもうどうしても語り得ないような気がした。それはコゼットのためにであったろうか、あるいはファンティーヌのためにであったろうか? その影をコゼットの考えのうちに投ずることに、また第三者たる死人をふたりの運命のうちに入れることに、彼は一種の敬虔《けいけん》な恐れを感じていた。その影が彼にとって神聖であればあるほど、ますますそれは恐るべきもののように彼には思えた。ファンティーヌのことを考えると、沈黙を強いらるるような気がした。脣《くちびる》にあてた指に似てるあるものを、彼はおぼろげに闇の中に認めた。ファンティーヌのうちにあったがしかも生前彼女のうちから残酷に追い出された貞節は、死後彼女の上に戻ってき、憤然として死せる彼女の平和をまもり、厳として墓中に彼女を見張っていたのではあるまいか。ジャン・ヴァルジャンは自ら知らずして、その圧迫を受けていたのではあるまいか。死を信頼するわれわれは、この神秘的な説明を排斥し得ないのである。かくてファンティーヌという名前は、コゼットに向かってさえ口に出せなくなる。
 ある日コゼットは彼に言った。
「お父様、私は昨夜《ゆうべ》夢の中でお母様に会いました。大きな二つの翼を持っていらしたの。お母様は生きていらした時からきっと、聖者になっていらしたのね。」
「道のために苦しまれたから。」とジャン・ヴァルジャンは答えた。
 その他では、ジャン・ヴァルジャンは幸福であった。
 コゼットは彼とともに外に出かける時、いつも彼の腕によりかかって、矜《ほこ》らかに楽しく心満ち足っていた。かく彼一人に満足してる排他的な愛情の現われを見ては、彼も自分の考えが恍惚《こうこつ》たる喜びのうちにとけてゆくのを感じた。あわれなるこの一老人は、天使のごとき喜悦の情に満ちあふれ
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