ンをちらと見かけた肉屋が彼女に言った、「あの人はよほど変な人だね。」すると彼女は答えた、「せ、聖者ですよ。」
 ジャン・ヴァルジャンも、コゼットも、またトゥーサンも、出入りは必ずバビローヌ街の門からした。表庭の鉄門から彼らを見かけでもしなければ、彼らがプリューメ街に住んでいようとは思われなかった。その鉄門は常に閉ざされていた。ジャン・ヴァルジャンは庭に少しも手を入れないでほうっておいた。人の注意をひかないためだった。
 しかしこのことについては、おそらく彼の見当は誤っていたようである。

     三 自然の個体と合体

 その庭は、かく半世紀以上も手を入れられずに放棄されていたので、普通《なみ》ならぬ様になり一種の魅力を持つようになっていた。今から四十年ばかり前にそこを通る人々は、その新鮮な青々とした茂みの後ろに秘密が隠れていようとは夢にも知らずに、その前に立ち止まってはながめたものである。見分けのつかない唐草模様《からくさもよう》の冠頂が変なふうについていて、緑青と苔《こけ》とがいっぱい生じてる二本の柱にはめ込まれ、ゆがみ揺らめいていて海老錠《えびじょう》のかかってるその古い鉄門の格子《こうし》越しに、しばしば無遠慮に中をのぞき込んで思い惑った夢想家は、その当時ひとりのみに止まらなかった。
 片すみに石のベンチが一つあり、苔のはえた二、三の立像があり、壁の上には時を経て釘《くぎ》がとれ腐りかかってる格子細工が残っていて、その上どこにも道もなく芝生もなく、一面に茅草《かやぐさ》がはえていた。園芸が去って自然がかえってきたのである。雑草がおい茂って、そのあわれな一片の土地はみごとな趣になっていた。十字科植物が美しく咲き乱れていた。その庭のうちにあっては、生命の方へ向かう万物の聖なる努力を何物も妨げていなかった。そこではすべてが尊い生長を自由に遂げていた。樹木は荊棘《いばら》の方へ身をかがめ、荊棘は樹木の方へ伸び上がり、灌木《かんぼく》はよじ上り、枝はたわみ、地上をはうものは空中にひろがるものを見いださんとし、風になぶらるるものは苔《こけ》のうちに横たわるものの方へかがんでいた。幹、枝、葉、繊維、叢《くさむら》、蔓《つる》、芽、棘《とげ》、すべてが互いに交り乱れからみ混合していた。かくて深い密接な抱擁のうちにある植物は、造物主の満足げな目の前において、三百尺平方の囲い
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