というのか、まあ聞けよ。」
「しッ!」と女房は言った。「大きな声をしなさんな。人に聞かれて悪いことだったら。」
「なあに、だれが聞くもんか。お隣か。奴《やっこ》さんさっき出て行ったよ。いたってあのおばかさんが聞きなんかするもんか。だがさっき出かけるのを見たんだ。」
それでも一種の本能からジョンドレットは声を低めた。しかしマリユスに聞こえないほど低くはならなかった。幸いにも雪が降っていて大通りの馬車の音を低くしていたので、マリユスはその会話をすっかり聞き取ることができた。
マリユスが聞いたのは次のような言葉だった。
「よく聞け。黄金の神様がつかまったんだ。つかまったも同じことだ。もう大丈夫だ。手はずはでき上がってる。仲間にも会ってきた。あいつは今晩六時に来る。六十フランを持ってきやがる。どうだ、俺《おれ》の口上はうめえだろう、六十フラン、家主、二月四日。実は一期分も借りはねえんだからな、ばか野郎だ。がとにかく六時にあいつはやって来る。ちょうど隣の先生も飯を食いに行く時分だ。ビュルゴン婆さんも町に皿洗いに行ってる時分だ。家の中にはだれもいやしねえ。お隣は十一時までは帰らねえ。娘どもには番をさしておく。お前は手伝わなくちゃいけねえ。野郎降参するにきまってる。」
「もし降参しなかったら?」と女房は尋ねた。
ジョンドレットはすごい身振りをして言った。
「やっつけてしまうばかりさ。」
そして彼は笑い出した。
彼が笑うのを見るのは、マリユスにとっては初めてだった。その笑いは冷ややかで静かで、人を慄然《りつぜん》たらしむるものがあった。
ジョンドレットは暖炉のそばの戸棚を開き、古い帽子を取り出し、袖でその塵を払って頭にかぶった。
「ちょっと出かけるぜ。」と彼は言った。「まだ会って置かなくちゃならねえ者もいる。みないい奴《やつ》ばかりだ。まあ仕上げを御覧《ごろう》じろだ。なるべく早く帰ってくる。うめえ仕事だ。家に気をつけておけよ。」
そして両手をズボンの隠しにつっ込み、ちょっと考えていたが、それから叫んだ。
「あいつが俺に気づかなかったのは、もっけの仕合わせというものだ。向こうでも気がついたらもうきやしねえ。危うく取りもらす所だった。この髯《ひげ》のおかげで助かったんだ。このおかしな頤髯《あごひげ》でな、このかわいいちょっとおもしろい頤髯でな。」
そして彼はまた笑い出した。
彼は窓の所へ行った。雪はなお降り続いていて灰色の空を隠していた。
「何てひどい天気だ!」と彼は言った。
それから外套《がいとう》の襟《えり》を合わした。
「こいつあ少し大きすぎる。」そしてつけ加えた。「だがまあいいや。あいつが置いてゆきやがったんで大きに助からあ。これがなかったら外へも出られねえし、何もかも手違いになる所だった。世の中の事ってどうかこうかうまくゆくもんだ。」
そして帽子を眼深《まぶか》に引き下げながら、彼は出て行った。
戸口から彼が五、六歩したかどうかと思われるくらいの時、扉《とびら》は再び開いて、その間から彼の荒々しいそしてずるそうな顔が現われた。
「忘れていた。」と彼は言った。「火鉢《ひばち》に炭をおこしておくんだぜ。」
そして彼は女房の前掛けの中に、「慈善家」がくれた五フラン貨幣を投げ込んだ。
「火鉢に炭を?」女房は尋ねた。
「そうだ。」
「幾桝《いくます》ばかり?」
「二桝もありゃあいい。」
「それだけなら三十スーばかりですむ。残りでごちそうでも買おうよ。」
「そんなことをしちゃいけねえ。」
「なぜさ?」
「大事な五フランをむだにしちゃいけねえ。」
「なぜだよ?」
「俺《おれ》の方でまだ買うものがあるんだ。」
「何を?」
「ちょっとしたものだ。」
「どれくらいかかるんだよ。」
「どこか近くに金物屋があったね。」
「ムーフタール街にあるよ。」
「そうだ、町角《まちかど》の所に、わかってる。」
「でもその買い物にいくらかかるんだよ。」
「五十スーか……まあ三フランだ。」
「ではごちそうの代はあまり残らないね。」
「今日は食物《くいもの》どころじゃねえ。もっと大事なことがあるんだ。」
「そう、それでいいよ、お前さん。」
女房のその言葉を聞いて、ジョンドレットは扉《とびら》をしめた。そしてこんどは、彼の足音が廊下をだんだん遠ざかっていって急いで階段をおりてゆくのを、マリユスは聞いた。
その時、サン・メダール会堂で一時の鐘が鳴った。
十三 ひそかに語り合う者は悪人の類ならん
マリユスは夢想家ではあったが、既に言ったとおり、また生来堅固な勇敢な男であった。孤独な瞑想《めいそう》の習慣は、彼のうちに同情と哀憐《あいれん》との念を深めながら、おそらく激昂《げっこう》する力を減じたであろうが、憤慨の力は少しもそこなわれずに
前へ
次へ
全128ページ中102ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング