しい二十四時間がすぎ去って、再びジャン・ヴァルジャンの姿を見た時、彼女は非常な喜びの声を上げたので、もし考え深い者がそれを聞いたら、ある深淵《しんえん》から出てきたものであることを察知したかも知れない。
 フォーシュルヴァンは修道院の者で、通行の合い言葉を知っていた。それによってどの扉《とびら》も開かれた。
 そういうふうにして、出てまたはいるという二重の困難な問題は解決された。
 前から旨を含められていた門番は、中庭から外庭に通ずる小さな通用門をあけてくれた。その門は今から二十年前までなお、正門と向かい合った中庭の奥の壁の中に、街路から見えていた。門番は三人をその門から導き入れた。そこから彼らは、前日フォーシュルヴァンが院長の命令を受けた特別の中の応接室にはいっていった。
 院長は手に大念珠を持って、彼らを待っていた。一人の声の母が、面紗《かおぎぬ》を深く引き下げて、そのそばに立っていた。かすかな蝋燭《ろうそく》の火が一つともっていて、ほとんど申しわけだけに応接室を照らしていた。
 修道院長はジャン・ヴァルジャンの様子を検閲した。目を伏せて見調べるくらいよくわかることはないとみえる。
 それから彼女は彼に尋ねた。
「弟というのはお前ですか。」
「はい長老様。」とフォーシュルヴァンが答えた。
「何という名前ですか。」
 フォーシュルヴァンが答えた。
「ユルティム・フォーシュルヴァンと申します。」
 彼は実際、既に死んではいたがユルティムという弟を持っていた。
「生まれはどこですか。」
 フォーシュルヴァンが答えた。
「アミアンの近くのピキニーでございます。」
「年は?」
 フォーシュルヴァンが答えた。
「五十歳でございます。」
「職業は?」
 フォーシュルヴァンが答えた。
「園丁でございます。」
「りっぱなキリスト信者ですか。」
 フォーシュルヴァンが答えた。
「家族の者残らずがそうでございます。」
「この娘はお前のですか。」
 フォーシュルヴァンが答えた。
「はい長老様。」
「お前がその父親ですか。」
 フォーシュルヴァンが答えた。
「祖父でございます。」
 声の母は院長に低い声で言った。
「りっぱに答えますね。」
 ジャン・ヴァルジャンはひとことも口をきかなかったのである。
 院長は注意深くコゼットをながめた。そして声の母に低い声で言った。
「醜い娘になるでしょう。」
 二人の長老は、応接室の隅《すみ》でしばらくごく低い声で話し合った。それから院長はふり向いて言った。
「フォーヴァン爺《じい》さん、鈴のついた膝当《ひざあて》をも一つこしらえなさい。これから二ついりますからね。」
 果してその翌日、庭には二つの鈴の音が聞こえた。修道女たちは我慢しきれないで、面紗《かおぎぬ》の一端を上げてみた。見ると庭の奥の木立ちの下に、フォーシュルヴァンとも一人、二人の男が並んで地を耘《うな》っていた。一大事件だった。緘黙《かんもく》の規則も破られて、互いにささやきかわした。「庭番の手伝いですよ。」
 声の母たちは言い添えた。「フォーヴァン爺さんの弟です。」
 実際ジャン・ヴァルジャンは正規に任用されたのである。彼は皮の膝当と鈴とをつけていた。それいらい彼は公の身となった。名をユルティム・フォーシュルヴァンと言っていた。
 そういうふうにはいることを許さるるに至った最も有力な決定的な原因は、「醜い娘になるでしょう[#「醜い娘になるでしょう」に傍点]」というコゼットに対する院長の観察だった。
 そういう予言をした院長は、すぐにコゼットを好きになって、給費生として彼女を寄宿舎に入れてくれた。
 これはいかにも当然なことである。修道院では鏡は決して用いられないとは言え、女は自分の顔について自覚を持ってるものである。ところで、自分をきれいだと思ってる娘は、容易に修道女などになるものではない。帰依の心は多くは美貌《びぼう》と反比例するものであるから、美しい娘よりも醜い娘の方が望ましい。したがって醜い娘が非常に好まれるに至るのである。
 さてこの事件は善良なフォーシュルヴァン老人の男を上げた。彼は三重の成功を博した。ジャン・ヴァルジャンに対しては、救ってかくまってやり、墓掘り人グリビエに対しては、罰金を免れさしてもらったと思わせ、修道院に対しては、祭壇の下にクリュシフィクシオン長老の柩《ひつぎ》を納めて、シーザーの目をくぐり神を満足さしてやった。プティー・ピクプュスには死体のはいった棺があり、ヴォージラールの墓地には空《から》の棺があることになった。公規はそのためにはなはだしく乱されたには相違ないが、それに気づきはしなかった。修道院の方では、フォーシュルヴァンに対する感謝の念は大なるものだった。フォーシュルヴァンは最良の下僕《しもべ》となり、最も大切な庭番となった。大司教が次回にやってきた時、院長は少しの懺悔《ざんげ》とまた少しの自慢とをもって、閣下にそのことを物語った。修道院を出る時大司教は、王弟の聴罪師であって後にランスの大司教となり枢機官となったド・ラティル氏に、ないしょで感心の調子でそのことをささやいた。フォーシュルヴァンに対する称賛はしだいに広まっていって、ついにローマにまで伝わった。われわれも実際一つの書簡を見たことがある。それは当時位に上っていた法王レオ十二世が、親戚の者でパリーの特派公使閣下で彼と同じくデルラ・ジェンガという名前の者に送ったものである。その中には次の数行があった。「パリーのある修道院にすぐれた庭番がいるらしい。実に聖者であって、名をフォーシュルヴァンというそうである。」けれどもそういう成功は、小屋の中のフォーシュルヴァンの耳にはまったく達しなかった。彼は相変わらず接木《つぎき》をしたり、草を取ったり、瓜畑《うりばたけ》に覆《おお》いをしてやったりして、自分のすぐれたことや聖《きよ》いことは少しも知らなかった。彼は自分の光栄については夢にも気づかなかった。あたかもダーハムやサレーの牛が、絵入りロンドン・ニュースに写真を掲げられ、有角家畜共進会において賞金を得たる牛[#「有角家畜共進会において賞金を得たる牛」に傍点]と記入されながら、それを少しも知らないのと同じだった。

     九 隠棲《いんせい》

 コゼットは修道院でもなお沈黙を守っていた。
 コゼットはごく自然に、自分をジャン・ヴァルジャンの娘であると思い込んでいた。その上彼女は何事も知らないので何も言うことはできなかった。またよし知っていたところで、おそらく何も言わなかったであろう。前に注意しておいたとおり、不幸ほど子供を無口になすものはない。コゼットは非常に苦しんできたので、何事でも恐れていた、口をきくことや息をすることさえも恐れていた。一言口をきいたために自分の上に恐ろしい雪崩《なだれ》を招いたこともしばしばあった。そしてジャン・ヴァルジャンに引き取られてからようやく安心しだしたに過ぎなかった。彼女はじきに修道院になれてきた。ただ人形のカトリーヌを惜しんだが、あえて口に出しては言わなかった。けれども、一度彼女はジャン・ヴァルジャンに言った。「お父さん、こうなるとわかってたら、あれを持って来るんだった。」
 コゼットは修道院の寄宿生になるについて、そこの生徒服を着なければならなかった。ジャン・ヴァルジャンは[#「ジャン・ヴァルジャンは」は底本では「ジャンン・ヴァルジャンは」]彼女が脱ぎ捨てた着物をもらうことができた。それはテナルディエの飲食店を出る時彼が着せてやったあの喪服だった。まだそういたんではいなかった。ジャン・ヴァルジャンはその着物や毛糸の靴下や靴にまで、たくさんの樟脳《しょうのう》や修道院にいくらもある各種の香料などをふりかけて、どうにか手に入れた小さな鞄《かばん》の中に納めた。そしてそれを寝台のそばの椅子《いす》の上に置いて、いつもその鍵《かぎ》を身につけていた。コゼットはある日彼に尋ねた。「お父さん、あんなにいいにおいのするあの箱は、ほんとに何なの?」
 フォーシュルヴァン爺《じい》さんは、前に述べてきたとおりの自ら知らない光栄のほかに、なおいろいろその善行の報いを得た。第一には、心に喜びを感じていた。次には、仕事が二つに分けられるのでよほど楽になった。最後に、彼は非常に煙草《たばこ》が好きだったが、マドレーヌ氏がいるために、以前よりは三倍も多く吸うことができ、しかもマドレーヌ氏が金を払ってくれるので非常にうまく味わうことができた。
 修道女らは少しもユルティムという名前を使わず、ジャン・ヴァルジャンをいつもも一人のフォーヴァン[#「も一人のフォーヴァン」に傍点]と呼んでいた。

 もしその聖《きよ》い処女たちが、多少なりとジャヴェルのような目を持っていたならば、何か庭の手入れのために用達にゆくような場合に外に出かけるのは、年取って身体がきかなくて跛者である兄のフォーシュルヴァンの方であって、決して弟の方でないことを、ついには気づくに至ったであろう。しかし、あるいは絶えず神の方へばかり目を向けていて、他のことをさぐる暇がなかったのか、あるいはお互いの身の上にのみ目をつけることに特に忙しかったのか、いずれにしても彼女らはそのことに何らの注意も払わなかった。
 その上、いつも黙っていて引っ込んでいたことは、ジャン・ヴァルジャンにはいいことだった。ジャヴェルはその一郭を一カ月以上も見張っていたのである。
 その修道院は、ジャン・ヴァルジャンにとっては深淵《しんえん》にとりまかれた小島のようなものだった。その四壁の中だけが以後彼の世界だった。そこで彼は、気をさわやかにするくらいにはじゅうぶん空を見ることができ、心を楽しませるくらいにはじゅうぶんコゼットを見ることができた。
 きわめて穏やかな生活が再び彼に初まった。
 彼はフォーシュルヴァン老人とともに庭の奥の小屋に住んでいた。その陋屋《ろうおく》は土蔵造りであって、一八四五年にはなお残っていたが、読者の既に知るとおり、三つの室《へや》から成っていて、どの室もみな裸のままの露《あら》わな壁があるばかりだった。その一番いい室は、ジャン・ヴァルジャンがこばむにもかかわらず、マドレーヌ氏へとしてフォーシュルヴァンがむりに与えてしまった。その室の壁には、膝当《ひざあて》と負籠《おいかご》とをかける二つの釘《くぎ》のほかに、飾りとして一七九三年の王家の紙幣が、暖炉の上の方に壁にはってあった。その模写は次のとおりである。([#ここから割り注]訳者注 図中の文字も念のために訳出す[#ここで割り注終わり])
[#王家の紙幣の図、図省略]
[#ここから紙幣の文字の訳文]
  国王の名において
十リーヴル兌換券
 軍需品代として交付す
 平和確立とともに償還す
第三部 第一〇三九〇号
   ストフレー
  正教王党軍(欄外に)
[#ここで訳文終わり]
 このヴァンデアン党([#ここから割り注]訳者注 王党の一派にしてストフレーはその将軍[#ここで割り注終わり])の紙幣は、この前の庭番が壁に鋲《びょう》で留めたものだった。彼はもと王党のものであって、修道院で死に、その後にフォーシュルヴァンがきたのだった。
 ジャン・ヴァルジャンは毎日庭で働き、大変役に立った。彼は昔枝切り人だったので、今また喜んで園丁になったのである。読者はたぶん思い起こすであろうが、彼は栽培に関するあらゆる方法と奥義とに通じていた。彼はそれを役立たした。果樹園のほとんどすべての樹木は野生のままだったが、彼はそれに接芽《つぎめ》してりっぱな果実をならした。
 コゼットは毎日一時間ずつ彼のそばで過ごすことを許されていた。修道女らは陰気であり、彼は親切であったから、子供の彼女は両方を比べてみて彼をなつかしんでいた。きまった時間がくると、彼女は小屋の方へ走ってきた。そして彼女がはいって来ると、その破家《あばらや》も楽園となるのだった。ジャン・ヴァルジャンも喜びに輝き、コゼットに与える幸福によってまた自分の幸福も増してくるのを感じた。人に与える喜悦こ
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