行券に医者が署名しますと、葬儀屋が棺をよこします。長老だと長老たちが、普通の修道女だと修道女たちが、死体を棺に納めます。それから私が釘《くぎ》を打つんです。それは庭番の仕事の一つになっています。庭番は墓掘り人の用までするんです。棺は会堂の低い室に入れられます。室は、往来に続いていまして、検死の医者のほかはだれも男ははいることができません。もっとも人夫どもだの私などは人数のうちにははいりませんからな。私が棺に釘を打つのはその室の中でです。そして人夫どもが棺を取りにきて、馬に鞭《むち》をあてて行ってしまいます。そういうふうにして天国に行くんですよ、空《から》の箱を持ってきて、それに何かを入れて持って行くんです。そういうのが葬式です。デ[#「デ」に傍点]・プロフォンディス[#「プロフォンディス」に傍点]です。」([#ここから割り注]訳者注 深き淵よりわれは主よなんじを呼ばわりぬ、という死者の祈りの句[#ここで割り注終わり])
ま横から低くさしてくる太陽の光が、コゼットの顔に当たっていた。眠っている彼女は、ぼんやりと口を少し開いていて、光を吸ってる天使のようだった。ジャン・ヴァルジャンはその顔をながめはじめていた。彼はもうフォーシュルヴァンの言うことに耳を傾けていなかった。
耳を傾けられていないことは口をつぐむ理由とはならない。善良な老庭番は、静かにくどくどと話を続けた。
「墓穴はヴォージラールの墓地に掘るんです。何でもその墓地はまもなく廃止になるということです。古い墓地でして、規定外のものだとか、規則に合わないとかで、取り払われるんだそうです。困まったものですよ。至って便利ですがね。そこには私の知ってる者が一人います。メティエンヌ爺《じい》さんと言って、墓掘りです。ここの修道女たちは特別に許されていまして、夜になってからその墓地に運ばれるんです。彼女たちのために特別な市庁の許可があるんです。ですがまあ昨日から何といろいろなことが起こったことでしょう! クリュシフィクシオン長老は死なれるし、それにマドレーヌさんまでが……。」
「葬られたのだね。」とジャン・ヴァルジャンは悲しげにほほえんで言った。
フォーシュルヴァンはその言葉じりを取り上げた。
「なるほど、すっかりここにはいってしまわれたら、全く葬られたことになりますな。」
四番目の鐘の音が響いてきた。フォーシュルヴァンは急に鈴のついた膝当《ひざあて》を釘《くぎ》から取りおろして、それを膝《ひざ》にはめた。
「こんどは私の番です。院長さんが私を呼んでいます。どれ一走り行ってきます。マドレーヌさん、ここを動いてはいけませんよ。待っていて下さい。何かまた工夫もつきましょうから。腹がすきましたら、あすこに葡萄酒《ぶどうしゅ》もパンもチーズもありますよ。」
そして彼は小屋を出ながら言った、「ただ今参ります、ただ今!」
ジャン・ヴァルジャンは彼の姿を見送った。彼はその跛の足でできる限り急いで、横目で瓜畑《うりばたけ》の方を見ながら庭を横ぎって行った。
それから十分とたたないうちに、フォーシュルヴァン爺《じい》さんは鈴の音で修道女らを追い散らしながら進んでいって、一つの扉《とびら》を軽くたたいた。静かな声が中から答えた、「永遠に[#「永遠に」に傍点]、永遠に[#「永遠に」に傍点]、」すなわち「おはいり[#「おはいり」に傍点]」と。
その扉は、用のある時庭番を呼ぶことになってる応接室の扉だった。その応接室は集会の室《へや》に続いていた。修道院長は室の中にあるただ一つの椅子《いす》に腰掛けて、フォーシュルヴァンを待っていた。
二 難局に立てるフォーシュルヴァン
急迫した場合にいらだったしかも沈痛な様子をするのは、ある種の性格の人やある種の職業の人には常のことであるが、ことに牧師や修道者にはそうである。フォーシュルヴァンがはいってきた時、そういう二種の懸念の様子は院長の顔つきの上に現われていた。普通ならば、その学者であって愛嬌《あいきょう》のあるブルムール嬢すなわちイノサント長老は、至って快活な人だったのである。
庭番はおずおずしたおじぎをして、室の入り口に立ち止まった。院長はその大念珠を爪繰《つまぐ》っていたが、目を上げて言った。
「ああフォーヴァン爺さんですか。」
その省略名が修道院でも使われていた。
フォーシュルヴァンはまたおじぎをした。
「フォーヴァン爺《じい》さん、お前を呼んだのは私《わたし》ですよ。」
「それで私《わたくし》は参りました。」
「お前に話があります。」
「私の方でもちょうど、」とフォーシュルヴァンは内心に恐れながらも思い切って言った、「長老様に少々申し上げたいことがございます。」
院長は彼をじっと見た。
「ああ何か私の耳に入れたいことがあるんですか。」
「お願いがございますので。」
「では、話してごらんなさい。」
もと公証人書記をやった朴訥《ぼくとつ》なフォーシュルヴァンは、物に動じない百姓とでも言うべき人物だった。一種の巧妙な無知というものは一つの力である。だれもそれに用心をしないで、かえってそれにいたされる。修道院に住むようになってから二年以上の間、フォーシュルヴァンは会衆の間にはなはだうまく立ちまわった。いつも一人で、庭の仕事を片付けながら、彼はただ好奇の目を見張ることばかりをしていた。行き来する面紗《かおぎぬ》をかけた女たちから遠くに離れていたので、彼はほとんど自分の前には影が動き回るのを見るだけだった。けれども注意と烱眼《けいがん》とをもって、彼はついにそれらの幽霊に肉を与え、それらの生きながらの死人をよみがえらすに至った。彼はあたかも、聾のために目が鋭くなった人のようだし、また盲目のために耳が鋭くなった人のようだった。彼は種々な鐘の音の意味を解くにつとめて、それに成功し、そしてついにその謎《なぞ》のような沈黙の修道院の内部をことごとく知ってしまった。スフィンクスはそのあらゆる秘密を彼の耳にしゃべってしまった。ところがフォーシュルヴァンはすべてを知りながら、すべてを隠していた。そこに彼の技巧があった。修道院の者はみな彼をばかだと思っていた。それは宗教においては大なる価値となる。声の母たちはフォーシュルヴァンを重宝がった。彼は珍しいほど無口だった。それで人々の信用を得た。その上彼はきちょうめんであって、また果樹や野菜などのためのはっきりした用事のほかは外出しなかった。そういう慎重な行ないが彼のためになった。それでも彼は二人の男にいろいろなことをしゃべらした。修道院では門番に、そして彼は応接室の種々なことを知った。墓地では墓掘り人に、そして彼は墓場の種々なことを知った。そのようにして彼は、修道女たちのことに関して二重の知識を得た、一つはその生について、一つはその死について。しかし彼は何一つ利用しなかった。会衆は彼を大事にした。年取って、跛者で、何事にも盲目で、また耳も少し遠いらしいので、これ以上都合のいいことはなかった。彼に代わるべき者はほとんどないと皆思っていた。
爺《じい》さんは、自分がよく思われてることを知ってるので安心して、修道院長様の面前で、かなりごたごたしたしかもきわめて意味の深いおしゃべりを田舎言葉《いなかことば》でやり出した。彼はくどくどと、老年であること、身体がよくきかないこと、以前より二倍も骨が折れること、仕事もしだいに多くなること、庭の広いこと、たとえば昨夜のように月のいい晩には瓜畑《うりばたけ》の上に蓆《こも》をかぶせてやらなければならなかったりして夜明かしをすること、いろいろ並べ立ててからついに言い出した。自分には一人の弟がある――(院長はちょっと身を動かした)――けれどもう年取っている(院長はまた身を動かしたが、それは安心の身振りだった)――もし許されるなら、弟にきてもらっていっしょに住んで助けてもらいたい。弟はすぐれた園丁である。弟は自分よりははるかに会衆の役に立つに違いない。――もしまた、弟が許されないようなことになると、それより年上である自分の方は、全く弱り切ってしまってるので、仕事にたえられなくて、非常に残念ではあるが、暇を頂かなければならないかも知れない。――弟には小さな娘が一人あるので、それを連れて来るだろう。そしたらここで神様のもとに育てられて、あるいは後に一人の修道女とならないとも限らない。
彼がそういう話をしてしまった時に、院長は大念珠を爪繰《つまぐ》るのをやめて、そして言った。
「今から晩までのうちに、丈夫な鉄の棒を一本手にいれることができるでしょうか。」
「なにになさるのでございますか。」
「物を持ち上げるためです。」
「承知いたしました、長老様。」とフォーシュルヴァンは答えた。
院長はその他には一言も言わずに、立ち上がって、隣の室にはいって行った。そこは集会の室《へや》で、たぶん声の母たちが集まっていたのであろう。フォーシュルヴァンは一人取り残された。
三 イノサント長老
約十五分ばかり過ぎた。修道院長は戻ってきて、椅子《いす》にまた腰掛けた。
二人とも何かに頭を満たされてるようだった。今ここに、二人の間にかわされた対話をできる限りそのまま速記してみよう。
「フォーヴァン爺《じい》さん。」
「長老様。」
「お前は礼拝堂を知っていますね。」
「礼拝堂に私は、弥撒《ミサ》や祭式を聞きます自分の小さな席を持っております。」
「それから用のために歌唱の間《ま》へはいったこともありますね。」
「二、三度ございます。」
「あそこの石を一枚上げるのです。」
「あの重い石でございますか。」
「祭壇のわきにある舗石《しきいし》です。」
「窖《あなぐら》をふさいでるあの石でございますか。」
「そう。」
「そういうことをいたすにも、二人いた方が便利でございますよ。」
「男のように強いあのアッサンシオン長老がお前に手伝って下さるでしょう」
「女の方《かた》と男とは別でございます。」
「お前の手助けといっては、ここには女一人きりおりません。だれでもできる限りのことをするよりほかはありません。マビーヨン師は聖ベルナールの四百十七篇を書かれ、メルロヌス・ホルスティウスはその三百六十七篇しか書かれなかったからといって、私はメルロヌス・ホルスティウスを軽蔑しはしません。」
「さようでございますとも。」
「自分自分の力に応じて働くことが尊いのです。修道院は工場ではありません。」
「そして女は男ではございません。私の弟は強い男でございます。」
「それから槓桿《てこ》を一つ用意しておきますように。」
「あのような扉《とびら》に合う鍵《かぎ》といっては槓桿《てこ》のほかにはありません。」
「石には鉄の輪がついています。」
「槓桿をそれに通しましょう。」
「そして石は軸の上に回るようにしてあります。」
「それはけっこうでございます。窖《あなぐら》を開きましょう。」
「そして四人の歌唱の長老たちが立会って下されます。」
「そして窖をあけましてからは?」
「またしめなければなりません。」
「それだけでございますか。」
「いいえ。」
「何でもお言いつけ下さい、長老様。」
「フォーヴァンや、私たちはお前を信用しています。」
「私は何でもいたします。」
「そして何事も黙っていますね。」
「はい、長老様。」
「窖をあけましたらね……。」
「またしめます。」
「でもその前に……。」
「何でございますか、長老様。」
「その中に何か入れるのです。」
ちょっと沈黙が続いた。院長は躊躇《ちゅうちょ》するように下脣《したくちびる》をとがらしたが、やがて言い出した。
「フォーヴァン爺《じい》さん。」
「長老様?」
「お前は今朝一人の長老が亡《な》くなられたのを知っていましょうね。」
「存じません。」
「では鐘を聞きませんでしたか。」
「庭の奥までは何にも聞こえません。」
「ほんとうに?」
「自分の鐘の音もよく聞こえないくらいでございますから。」
「長老は夜の明け方に亡くなられました。」
「それに今朝は、風
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