に最初の隠れ場所を見い出した。それから上アルプ県にはいって、ブリアンソンの近くのグラン・ヴィヤールの方面へ進んだ。探り探りの不安な逃走で、分かれ道などは全く不明な土竜《もぐら》の穴のような道程だった。後になって彼の逃走の跡は多少見い出された、すなわち、エーン県ではシヴリユーの土地、両ピレネー県ではシャヴァイユ村の近くのグランジュ・ド・ドーメクと言われているアコンの片すみ、それからペリグーの付近ではシャペル・ゴナゲー区のブリュニー。そして最後にパリーにはいった。それから彼がモンフェルメイュへきたのは読者の既に見たところである。
パリーへきてからの第一の仕事は、七、八歳の小娘のために喪服を購《あがな》うことであり、次に住居を求めることであった。それが済んで、彼はモンフェルメイュへ赴《おもむ》いた。
読者の知るとおり、彼はこの前の逃走の時すでに、モンフェルメイュかまたはその付近にひそかな旅をしたのだった。官憲もそのことはうすうす知っていた。
けれども今や彼は死んだと思われていた。そのために彼をおおい隠してるやみはいっそう深くなっていた。パリーで彼は、自分のことを掲載してる新聞を一つ手に入れた。彼はそれで安心を覚え、あたかも実際に死んだような平和を覚えた。
テナルディエ夫婦の爪牙《そうが》からコゼットを救い出した日の夕方、ジャン・ヴァルジャンは再びパリーにはいった。夕暮れの頃コゼットとともにモンソーの市門からはいった。その市門の所で幌馬車《ほろばしゃ》に乗り、天文台の前の広場まで行った。そこで馬車をおりて、御者に金を払い、コゼットの手を引いて、二人で暗夜の中をウールシーヌとグラシエールの両郭に隣している人気のない街路を通って、オピタル大通りの方へ進んで行った。
コゼットにとっては、その日は感動の多い異様な一日であった。寂しい飲食店で買ったパンとチーズとを籬《まがき》の影で食べたこともあった。たびたび馬車を代えたり、しばらくは徒歩で行ったりした。彼女は少しも不平をこぼさなかった。けれどもだいぶ疲れていた。歩きながらしだいに彼女が手を引っぱるようになるので、ジャン・ヴァルジャンもそれに気がついた。彼はコゼットを背中におぶった。コゼットは人形のカトリーヌを手に持ったまま、頭をジャン・ヴァルジャンの肩につけて、そのまま眠ってしまった。
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第四編 ゴルボー屋敷
一 ゴルボー氏
今から四十年ばかり前のことである。一人でぶらりと歩き回って、サルペートリエールの奥深い裏通りへはいって行き、大通りをイタリー市門の方まで進んで行くと、ついにもうパリーの町も尽きたと思われるような一郭に達するのであった。そこは、通行人があるところを見ると僻地《へきち》でもなく、人家や街路があるところを見ると田舎でもなく、田舎の街道のように通りには轍《わだち》の跡があり、草が茂っているところを見ると町でもなく、人家がごく高いところを見ると村でもなかった。ではいったいどういう所なのか? 人が住んではいるがだれの姿も見えない場所であり、ひっそりとしてはいるがやはりだれかがいる場所であった。それは大都市の一並み木街であり、パリーの一街路ではあるが、夜は森の中よりもいっそう恐ろしく、昼は墓場よりもいっそう陰気だった。
それはマルシェ・オー・シュヴォー(馬市場)という古い一郭であった。
その馬市場のこわれかかった四つの壁の向こうまで進んでゆき、プティー・パンキエ街をたどり、高い壁で囲まれた菜園を右手に過ぎ、大きな海狸《うみだぬき》の巣に似たタン皮の束が立ってる牧場の所を通り、木片や鋸屑《のこぎりくず》や鉋屑《かんなくず》などが山となってその上には大きな犬がほえており、また木材がいっぱい並べてある庭の所を通り、しめきったまっ黒な小門がついていて春には花を開く苔《こけ》でおおわれてる長い低いこわれかけた壁の所を通り、貼札を禁ず[#「貼札を禁ず」に傍点]と大きい字が書いてある朽ちはてたきたない土蔵の壁の所を通ってゆくと、ついにヴィーニュ・サン・マルセル街の角《かど》まで行けるのであった。その辺はあまり人に知られてない所だった。そこにある一つの工場のそばには、両方の庭にはさまれて、当時一軒の破屋があった。それは外から見ると百姓家くらいの小ささだったが、実際は大会堂ほどの大きさをしていた。側面の切阿《きりづま》で通りに面していて、そのために外観の狭小をきたしているのだった。ほとんど家の全体は通りから隠れていた。ただ戸口と一つの窓とが見えるきりだった。
その破屋は二階建てだった。
それをよくながめる時、第一に不思議な点は、戸口は単なる破屋の戸口らしい粗末なものにすぎないのに、窓の方は、それがもし荒ら石の壁の中にあけられてるのでなく切り石の中にでもこしらえられてたら、りっぱな邸宅の窓としても恥ずかしからぬほどのものだった。
戸口はただ腐食した木の板でできていて、その板はいい加減に四角に割った薪《まき》のような横木で無造作に止めてあった。戸口はすぐに急な階段に続いていた。階段は段が高く、白塗りで泥と塵《ちり》とにまみれ、戸口と同じ幅になっていて、表の通りから見ると、梯子《はしご》のようにまっすぐに上っていって二つの壁の間に暗がりに消えていた。戸口がついてるぶざまな壁口の上の方は、狭い薄板で張られ、その薄板のまんなかに三角形の小窓があけられていて、戸口がしめらるる時には軒窓ともなり小窓口ともなっていた。戸口の内側には、インキに浸した二筆《ふたふで》で五二という数字が書いてあり、薄板の上方には同じ筆で五〇という数字が書きなぐってあった。全くどちらが本当かわからなかった。いったい何番地なのか? 戸口の上からは五十番地と言うし、戸口の中からは反対して、いや五十二番地だと言う。三角形の小窓には、塵にまみれた何かのぼろが旗のように掛かっていた。
窓は大きくて、高さも十分であり、鎧戸《よろいど》もあり大きな窓ガラスの框《かまち》もついていた。ただそれらの大きなガラスには種々な割れ目があって、器用に紙で張って隠してあるので、またかえって目立っていた。鎧戸は留め金がはずれぐらぐらしてるので、家の者を保護するというよりもむしろ下を通る人々に不安を与えていた。日よけの横木が所々取れていて、そこには板が縦に無造作に打ち付けてあった。それで初めは鎧戸だったものが、ついには板戸となったありさまである。
時勢遅れのようなその戸口とこわれてはいるが相当なその窓とがかく同じ家に見えることは、ちょうど不似合いな二人の乞食《こじき》を見るようなもので、二人はいっしょに並んで歩いてはいるが、同じようなぼろのうちにも各異った顔つきをしていて、一人は元来の乞食であるが、一人は元一個の紳士であったらしく思えるようなものだった。
階段は建物の一部に通じていて、そこはきわめて広く、ちょうど納屋を住宅にしたもののようだった。建物の中には腸のように廊下が続いていて、それから左右に種々な大きさの部屋らしいものがあったが、それもようやく住まえるだけのもので、部屋というよりむしろ小屋といった形である。それらの室《へや》は周囲の空地に面していた。そしてどれも皆薄暗く、荒々しく、ほの白く、陰鬱《いんうつ》で、墓場のようだった。すき間が屋根にあったり扉《とびら》にあったりするので、それを通して冷たい光線が落ちてきたり凍るような寒風が吹き込んできたりした。そのどうにか住宅らしい建物のうちでおもしろいみごとな一つの点は、蜘蛛《くも》の巣の大きいことであった。
入り口の戸の左手に、大通りに面して身長くらいの高さの所に、塗りつぶした軒窓が一つあって、四角なくぼみをこしらえて、通りがかりの子供らが投げ込んでいった石がいっぱいはいっていた。
この建物の一部は近頃こわされてしまった。けれども今日なお残ってるものを見ても、昔のありさまが察せられる。その全部の建物は、まだほとんど百年の上にはなるまい。百年といえば、教会堂ではまだ青年であるが、人家ではもう老年である。人間の住居は人の短命にあやかり、神の住居は神の永生にあやかるものらしい。
郵便配達夫はその破屋を、五十・五十二番地と呼んでいた。けれどもその一郭では、ゴルボー屋敷という名前で知られていた。
この呼び名の由来は次のとおりである。
本草学者が雑草を集めるように種々な逸話をかき集め、記憶のうちに下らない日付を針で止めることばかりをやってる些事《さじ》収集家らは、前世紀一七七〇年頃、コルボーにルナールというシャートレー裁判所付きの二人の検事が、パリーにいたことを知っているはずである。ラ・フォンテーヌの物語にある烏《からす》(コルボー)と狐《きつね》(ルナール)との名前である。いかにも法曹界《ほうそうかい》の冷笑《ひやかし》の種となるに適していた。そして間もなく、変なもじりの詩句が、法廷の廊下にひろがっていった。
[#ここから4字下げ]
コルボー先生は記録に棲《と》まりて、
差し押さえ物件を啣《くわ》えていたりぬ。
ルナール先生はにおいに惹《ひ》かれて、
次のごとくに話をしかけぬ。
「やあ今日は!」……云々《うんぬん》。
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([#ここから割り注]訳者注 ラ・フォンテーヌの物語の初めを参考までに書き下す――烏先生は木の上にとまって、くちばしにチーズをくわえていた。狐先生はそのにおいに惹かれて、こんな言葉を彼にかけた。「やあ今日は……云々」[#ここで割り注終わり])
[#ここで字下げ終わり]
二人の律義《りちぎ》な法律家は、そういう冷評を苦にし、自分の後ろからどっと起こる笑声に少なからず威厳を傷つけられて、名前を変えようと決心し、ついに思い切って国王に請願した。ちょうど一方には法王の特派公使と他方にはラ・ローシュ・エーモン枢機官とが、二人ともうやうやしくひざまずき、陛下の御前において、床から起きてきた御|寵愛《ちょうあい》のデュ・パリー夫人のあらわな両足に各自上靴をおはかせ申したその日に、請願書は国王ルイ十五世に差し出された。笑っていられた国王はそれをみてなお笑われて、心地よく二人の司教の方から二人の検事の方へ向かわれ、その二人の法官の名前をある程度まで許してやられた。で国王の允許《いんきょ》をもって、コルボー氏は名前に濁点を付してゴルボーと名乗ることができた。またルナール氏の方は、プの字を頭につけて、プルナールと名乗ることができたが、前者ほど仕合わせでなかったというのは、第二の名前も第一のとほとんど似たりよったりだったからである。
ところでその辺の言い伝えによれば、そのゴルボー氏がオピタル大通り五十・五十二番地の破屋の所有者であったそうである。あのりっぱな窓をこしらえさしたのも彼自身であったとか。
そういうわけでその破屋は、ゴルボー屋敷という名前をもらっていた。
五十・五十二番地の家のすぐ前には、オピタル大通りの並み木の間に半ば枯れかかった大きな楡《にれ》の木が一本立っていた。家のほとんど正面に、ゴブラン市門の街路が開けていた。その街路には当時人家もなく、舗石《しきいし》もなく、季節によって緑になったり泥をかぶったりする醜い樹木が植えられていて、パリーの外郭の壁にまっすぐに通じていた。硫酸の匂《にお》いがそばの工場の屋根から息をついて吹き出ていた。
市門はすぐ近かった。一八二三年には外郭の壁もまだ残っていた。
その市門は人の心に痛ましい幻を与えるものであった。それはビセートルへ行く道であった。帝政および王政復古の時代に死刑囚らが刑執行の日に、パリーへはいってきたのは、そこからであった。一八二九年ごろにあのいわゆる「フォンテーヌブルー市門」の殺人事件が行なわれたのも、そこにおいてであった。それは実際不思議な事件で、官憲もその犯人らを発見することができず、全く不明に終わった惨劇で、ついに解決を得なかった恐ろしい謎《なぞ》であった。それから数歩進むと、あの不吉なクルールバルブ街になって、そこではあたかもメロド
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